波濤を越えて

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  『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ161518節)」

 幕末に、アメリカから太平洋の波濤を越えて、日本にやって来た宣教師たちの中に、ヘボン( James Curtis Hepburn )と言う方がいました。1859年4月に、北アメリカ長老協会の医療宣教師として、ニューヨクを出発し、香港、上海、長崎を経由して、その半年後の10月17日に、横浜に到着しています。
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 成仏寺の本堂が、ヘボンの住まいとされ、「神奈川施療所」を設けて、主に眼科の治療にあたったのです。日本最初の幕府公認の西洋医学の医院が、横浜に開院されたのです。その頃、「生麦事件」が起きって、ヘボンたちは、負傷者の治療をしたと記録が残されています。眼科の治療のために、無料で診察をしたと言われています。

 ヘボン夫妻には、6人のお子さんがいたのですが、5人が病死するという辛い経験をしながらも、キリストの愛によって、医療に従事し、英語教育を始めて、キリストを証ししていきます。港区の白金にある、明治学院の創設者は、このヘボンでした。会津戦争に、白虎隊として立った井深梶之助は、この明治学院で学び、後に学院経営に当たっています。

 晩年、病弱だったクララ夫人に寄り添って支えたことが語り残されています。あのローマ字の「ヘボン式」は、この方の努力によって作られているのです。医療宣教師の立場で日本の社会の中で奉仕をされた方です。維新後、日本の近代化のために、多くの御雇外国人がいましたが、その中でクリスチャンの教師や技師や宣教師の寄与は絶大なるものがあります。


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 私たちが華南の街にいた時に、娘のようにして、いろいろと助けてくれた方は、漁村の出身の方でした。村の市場の入り口で、バケツに入れた魚を商いするお母様を助けながら、貧しい生活を支えて少女期を送ったのだと、話してくれました。その漁村は90%の人が、五代目、六代目のクリスチャンで、彼女のお母さまも、彼女も、お子さんたちも、同じ信仰を継承しておいでです。ヘボンのような宣教師たちの福音宣教の結果なのです。

 ヘボンが日本に来た頃、欧米諸国の植民地主義の野心ではなく、「福音宣教」のために、多くの宣教師が、広東省、福建省、浙江省などの海岸地域や、内陸部で宣教をされ、その奉仕の実が残され、信仰を継承しているのです。数年前、帰国した家内を見舞うために、友人と二人でやって来られ、お借りしていた家の掃除や食事のお世話までしてくださったのです。

 家内も義母も、私も母も、宣教師の伝道の実なのです。神のいますこと、この神が父で、愛の神であること、その愛のゆえに、神が人となられた「神の子イエス」が、信じる者の罪の身代わりに、十字架に刑死してくださったこと、三日三晩の後に、このキリストなるイエスは、墓と死を打ち破られて蘇られたこと、弟子たちとしばらく過ごした後に、天の神の右の座に着座されたこと、そこで執り成しの祈りをされ、助け主なる聖霊を送られ、信じた者を迎えるために、場所を設け、その場所が備えられたら迎えに来てくださること、そう言ったことを伝えてくれて、信ずる人が中国にも日本にも、世界中に起こされてきたのです。

(東シナ海の海岸風景、英国の聖公会の宣教師が残された教会堂です)

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