にらめっこ

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 「毎日新聞」に、自分の母親を語る欄、「文芸春秋」にもオフクロ欄がありました。いまもあるのでしょうか。著名人が、亡き母や老いた母を、思い思いに、そこで語っているのです。千差万別、様々な母親の思い出や影響があることを読んで、結構面白い記事だと感心していたのです。『この人にはこんな母親がいたんだ!』と思うこと仕切りです。

 老境に達した男性が、自分の母を語る語り口には実に、ほほえましいものがあります。とくに男の子にとっての母親は特別なのだと思うのです。神さまが極めて親密な関係を定められたわけです。9ヶ月もの間、その母の胎の中で育まれ、誕生するや自分で飲んだりすることの出来ない赤子だった私たちを、実に献身的に世話をしてくれた育児者が、母親だったわけですから。

 それらの記憶は全くないのですが、体が覚えているわけです。さらに初めて身近にした女性でもあるわけです。月の輪熊の母子の様子がテレビで放映されているのを観たことがありますが、その関係の影響力は、その子熊の一生を決定するほどの意味があるのだと、語られていました。生きていくことを学ばさせてくれ、子はそれを習得してきたわけです。ペンギンでも狼でも猫でも、その母子関係は実に細やかで、実務的な教育がなされいるのを知らされます。

 もちろん病死などの離別で、母親の思い出や影響の全くない方もおられるのですが、それも神がお許しになられたと認めるなら、欠けたるところを、神さまは充分に補ってくださるに違いないのです。ある方が、『おかあちゃんに会いて-よー!』と泣いているのを見させて頂いた時、いくつになっても、母親は母親なのだと確信させられたことがありました。

 私の説教を聴かれて《マザコン牧師!》と言われたことがありました。自分の母を誇って語ったことが、その方にはずいぶんと気に障ったわけです。人には様々な過去と背景がありますが、その方を、決して傷つけようとしたのでも無配慮にでもなく、母の教えに感謝して語ったのですが。同じ母の子でも母に対する思いや評価は、それぞれに違うわけですから、仕方がないのかも知れませんね。

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 聖書は「あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ(箴言23章22&25節)」と言っています。

 私の母が、老いを迎えて、息苦しくなったり高血圧であったりして弱くなっていく様子を見ていました。2度の大病を、主に癒され励まされて越えて生きて来た母が、年毎に、ひと回り小さくなっていったのです。いつでしたか、母の通院に付き添いました。駐車場から診察室まで遠かったので、帰りに、母をおんぶしたのです。おぶってもらった記憶はありますが、今まで母親を背負う機会がなかった私が、平成の啄木の様に、砂浜ではなく、ビルの廊下を百歩ほど背負ったでしょうか。『このおじさん何してんの?』といった顔を向ける若者の間を歩んだのです。やはり軽かったのです。

 その時「砂の上の足跡」と言うクリスチャンの作られた有名な詩がありますが、その詩を思い出しました。母を95年間、とくに14才の少女の時からおぶってくださったのは、主イエスさまだったことに気付かされたことです。

 久し振りに、我が家を訪ねてくれた母を迎えて、家内と三人で、祝福の時を持った日を思い出します。暦を見ましたら、『夏も近づく八十八夜!』の真夏のような日でした。もう、母が召されて何年になるでしょうか。母に関する戸籍の写しが、弟から、昨日送られてきました。2時間ほど、明治以降、母の養父母の名前や生まれた日や土地や経緯とにらめっこしていました。

 

(母にまつわる山陰、中国山地の一風景です)

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