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私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
私は今、生きている。
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
私はこの瞬間を、生きている。
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
今を一緒に、生きているのだ。
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
(浦添市立湊川中学校3年 相良倫子)
戦争のあったことを語り継ぎ、若い世代が平和を願っていく想いは、今まさに切り広げられている「ウクライナ戦争」を目(ま)のあたりにすると、当然なのだと思います。かつて戦場だった沖縄で、生まれ育った若い人たちは、祖父母のもうひとつ前の世代の体験談を聞いたり、書物や写真集や映像で見て、また記念碑の前に立ったたりし、戦没者の記名碑を見ての想いなのでしょう。
この詩を読んで、日中友好下に、中国から来られて、日本の理工系の大学院で学んでいた方が語った言葉が忘れられません。広島の原爆記念館に行かれての感想です。『日本は、戦争の被害者の記念碑を作って、その被害を忘れない様にしていますが、どうして「加害者だった記念碑」をなおざりにしているのでしょうか。それでは片手落ちではないでしょうか。』とです。
『エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。 (ヨエル3章19節)』
穏やかな口調でしたが、被害者の子や孫の想いとすれば、この想いも当然ではないでしょうか。祖国を軍靴で踏み躙(にじ)られたのですから、多くの命が犠牲になった事実を、忘れないで欲しかったのでしょう。今、「広島県」をブログに載せようとしていますが、そんな思いがあって、草稿が進まないのです。
後の世代に、加害者だった時代の出来事、歴史的事実を、正しく伝えられていないと、被害者意識だけになってしまうのはいけません。事実の誇張もありますが、数の問題ではなく、事実は厳然として残されていて、戦争を知らない大人が、作為的に「歴史の改竄(かいざん)」をしていますし、事実全部を伝えてはいません。偏らない歴史教育は、IT教育の強化と同じ様に大切ではないでしょうか。
昨日、屈託ない小学三年生のお二人と会って、しばらく話したり、フレスビー遊んだりしたので、殊更に、そんな思いにされました。「似非(えせ)軍国少年」の歪んだ時期を通って来た自分としては、令和の世の子どもたちの無邪気さが羨ましかったのです。
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