たびたび、次女から写真や動画が送信されてきます。その主人公は、婿殿の妹の二歳になった女の子なのです。おでこを怪我していたり、後ろ歩きをしたり、顔をきゅっと縮めたり、active で可愛いのです。この子には、母方のおばあちゃんの名前がつけられています。
この子のお母さん、この cuteなチビちゃんのママですが、彼女のおばあちゃんに愛されて育ったのです。産みの親に養育を放棄された子で、婿殿たち年上の三人兄弟に、彼女も加えられて、十二分に愛されたのです。家内と一緒に、婿殿の実家を訪ねた時に、何度か会ったことがあります。はにかみながら握手をしてくれました。
家族に愛された可愛いお嬢さんで、屈託がなかったのです。学校を出て仕事を始めてしばらく経って、教会で出会った青年と結婚したのです。まだ高校生だった頃に、家族で礼拝を守っている教会を訪ねた時に、youth group の青年だった青年を、彼女が紹介してくれていました。
死別よりも、生き別れの方が、幼い子には辛い経験なのでしょうか。何歳頃でしょうか、産みの母親を見つけ出して、会いに出掛けたそうです。そしてはっきりした訣別をして、家に帰って来たと、次女が話してくれました。どんな境遇でも、人は愛されて育つなら、悪いものを跳ね返して生きていける力や感情を得られるのでしょう。創造主でいらっしゃる神と出会って、その自分の境遇を、神さまの手から受け入れられたのです。
それで、その青年と教会で結婚をし、生まれたお嬢さんに、亡くなったお母さんの名前をつけたのです。きっと、その名を呼ぶたびに感謝し、養い育ててくれた養母の死、さらには生みの親との関係の死を受け入れつつ、自分の愛娘を、自分が育てられたように、育てているのでしょう。
アルフォンス・デーケンと言われる哲学者がおいででした。もう召されておいでです。この方は、長く上智大学で「死の教育」、「死の神学」の講座を担当された方でした。私は、大変な興味を持って、この教授の公開講座を受講したことがありました。週に一度、特急電車に乗って、四ツ谷駅まで通ったのです。実に有意義な学びの時でした。
とくにデーケン教授は、「悲嘆の作業(グリーフワーク)」の重要さについて教えてくれたのです。愛する人との死別というのは、どなたにも経験がありますし、将来においてあり得ることですし、また自分の《死》も迎えねばならないわけです。それは避けることのできない《万人の体験》なのです。
とくに、愛する人との決別を、十二分に悲しみ嘆くことが必要だと、デーケン師は言うのです。それを確りと果たした後は、正常な生活に戻り、悲嘆体験を超えて、自分の定められた《生》を責任をもって生きて行く、そう言った心の作業が必要なのだそう です。みんなに「デーケンさん」と親しみをこめて呼ばれておいででした。その講座で教えていただいた「悲嘆のプロセス」には、12段階があって、次の様です。
1段階 精神的打撃と麻痺状態
愛する人の死という衝撃によって、一時的に現実感覚が麻痺状態になる。頭が真空になったようで、思考力がグッと落ち込む。心身のショックを少しでも和らげようとする本能的な働き、 つまり、防衛規制。
2段階 否認
感情、理性ともに相手の死という事実を否定する。 「あの人が死ぬ訳がない、きっと何かの間違いだ」という心理状態。
3段階 パニック
身近な死に直面した恐怖による極度のパニックを起こす。 悲嘆のプロセスの初期に顕著な現象 。なるべく早く抜け出すことが望ましく、またこれを未然に防ぐことは、悲嘆教育の大切な目標のひとつと言える。
4段階 怒りと不当感
不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを感じる。 「私だけがなぜ?」「神さまはなぜ、ひどい運命を科すの?」
※ショックがやや収まってくると「なぜ私だけが、こんな目に…」という、不当な仕打ちを受けたという感情が沸き上がる。 亡くなられた方が、長期間闘病を続けた場合など、ある程度心の準備ができる場合もあるが、急病や災害、事故、自死などのような突然死の後では、強い怒りが爆発的に吹き出す。 故人に対しても、また自分にひどい仕打ちを与えた運命や神、あるいは加害者、そして自分自身に対する強い怒りを感じることもある。
5段階 敵意とルサンチマン(憤り、怨恨、憎悪、非難、妬み)
周囲の人々や個人に対して、敵意という形で、やり場のない感情をぶつける。 遺された人のどうしようもない感情の対象として、犠牲者を必要としている場合が多く、また病死の場合は敵意の矛先を最後まで故人の側にいた医療関係者に向けられるケースが圧倒的。 日常的に患者の死を扱う病院側と、かけがえのない肉親の死に動転している遺族側との間に、感情の行き違いが起こる場合が多い。
6段階 罪意識
悲嘆の行為を代表する反応で、過去の行いを悔やみ自分を責める。 「こんなことになるなら、生きているうちにもっとあれこれしてあげればよかった」という心境。 過去の行いを悔やんで自分を責めることになる。
7段階 空想形成・幻想
幻想ー空想の中で、故人がまだ生きているかのように思い込み、実生活でもそのように振る舞う。
例1:亡くなった子供の部屋をどうしても片付けられず何年もそのままにしている
例2:いつ子供が帰ってきてもいいよう、毎晩ベッドの上にパジャマまで揃えおく
8段階 孤独感と抑うつ
健全な悲嘆のプロセスの一部分、早く乗り越えようとする努力と周囲の援助が重要。葬儀などが一段落し、周囲が落ち着いてくると、紛らわしようのない寂しさが襲ってくる。
9段階 精神的混乱とアパシー(無関心)
日々の生活目標を見失った空虚さから、どうしていいかわからなくなり、あらゆることに関心を失う。
10段階 あきらめ・受容
自分の置かれた状況を「あきらか」に見つめて受け入れ、つらい現実に勇気をもって直面しようとする努力が始まる。
※「あきらめる」という言葉には「明らかにする」というニュアンスが含まれている。
11段階 新しい希望・ユーモアと笑いの再発見
ユーモアと笑いは健康的な生活に欠かせない要素で、その復活は悲嘆プロセスをうまく乗り切りつつあるしるし 。
※悲嘆のプロセスを彷徨っている間は、この苦しみが永遠に続くような思いに落ち込むものだが、いつかは必ず、希望の光が射し込んでくる。 こわばっていた顔にも少しずつ微笑みが戻り、ユーモアのセンスも蘇ってる。
12段階 立ち直りの段階・新しいアイデンティティの誕生
愛する人を失う以前の自分に戻るのではなく、苦悩に満ちた悲嘆のプロセスを経て、新しいアイデンティティを獲得し、より成熟した人格者として生まれ変わることができる。
デーケン師も、子どもの頃に、ごく親しい人との死別をされていて、悲嘆の体験があって、そう言った学びをされたのだそうです。悲しみの中で、もし《ユーモア》、《微笑み》があるなら、それを上手に超えて、正常な生活の戻れると、師は勧めています。デーケン流の《ユーモア》の定義は、「にも関わらず笑う」なのです。
(“ キリスト教クリップアート” の「死の陰の谷の同行」です)
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