岡山県

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 学校を出たての初めての職場で働いていた時,出張が多くありました。岡山のどこへ行ったのか、記憶がないのですが,その頃,母が入院していたのです。その母のために,旧国鉄の岡山駅前の,果物屋さんで,一箱《一万円》の「マスカット(Muscat of Alexandria /葡萄)」を買ったことは覚えているのです。

 『お母様の手術の結果、卵巣にガンが見つかって、摘出しましたが、半年の寿命です!』、父に変わって行った病院の主治医が、わたしに、そう告げていたのです。闘病中の母を元気付けたくて,当時、初任給を25000円もらっていて,2年目ほどでしたから,結構の値段でした。でも出張費もあったりで,母を喜ばせたかったのです。この県の県庁所在地の岡山市には,市の歌があります。市民が自分の街を愛する歌なのです。

桃の咲くころ あなたと出会い
熟れたぶどうを あなたと摘んだ
さやかにうつろう 季節の彩(いろ)を
川は浮かべて 流れゆく
みんなのこころに かようまち
ふるさと岡山 わたしの岡山

風も唄うよ 歴史の歌を
花のしたかげ 歩いた小径
ときめくあの日の 思い出抱いて
今日もやさしい 吉備の国
みんなのこころに のこるまち   
ふるさと岡山 わたしの岡山

明日へつないだ ほのかな夢も
かなう気がする 夕映えの瀬戸
ゆきかう船にも 願いをこめて
せめて想いを つたえたい
みんなのこころに 生きるまち   
ふるさと岡山 わたしの岡山

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 特産の葡萄は、《晴れの国》の nickname の岡山市の誇りだったのが分かります。生まれて,子ども時代を過ごした山梨県も、「葡萄県」で,父の親しい方が、果物屋さんをしていた関係で、季節になると、いつもわが家には葡萄が届けられていました。デラウエアとかキャンベルとか甲州種の葡萄とかだったでしょうか。その岡山県は、葡萄生産では、当時は全国一位、二位の生産を誇っていたのです。

 この県との関わりですと、そのくらいしかないでしょうか。華南の街にいました時に,家内とお交わりがあったご婦人が、岡山県の津山の出身で、東京で出会った中国の方と結婚しておいででした。

 そのお子さんが、今は都内の有名大学に入学されておいでです。最近はご連絡がないのですが、わたしと家内の入院中に、大変にお世話をいただいたり、ご心配くださった方たちです。気候が温暖な瀬戸内気候に育って、穏やかで、優しいお母さんでした。息子さんは、怪我の手術の後に、華南の街に帰ってきたわたしに、日本で買って帰った、自分の肝油ドロップを、回復を願ってプレゼントしてくれた高校生でした。

 さて、律令制のもとでは、吉備国(きびのくに)と呼ばれ、備前、備中、備後と区分けがされていました。県都は岡山市、人口は184万人、県花は桃の花、県木はアカマツ、県鳥は雉(きじ)です。温暖な気候の県でしょうか、そのせいで、人も穏やかな県民性のようです。

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 倉敷の「大原美術館」に、車で出掛けたこともありました。大原孫三郎が、巨額の投資をして建てた美術館で、公立でないものとしては、その収蔵品の量も質も、極めて貴重だとされています。絵を描かない自分ですが、時間をさいてのの見学でした。岡山市に知人がいて、そこに泊めていただいたのです。

 海辺は漁港も多く、内陸では農業や果物生産が盛んで、住んでみたい県の一つです。日本で初めての「孤児院」が、宮崎(日向)の人ですが,石井十次によって,岡山に開院されています。十次は、早く召されてしまいましたが,日本の社会に対してなされた、クリスチャンとして素晴らしい愛の奉仕、事業は特筆すべきことでありました。あの大原孫三郎は、十次の働きを陰になり日向になって援助していました。

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