京都府

.

.

 祇園とか鴨川、御所や二条城などを代表とする京都は、長く日本の首都であった街です。この京都は、第三高等学校が置かれた学都でもありました。その三高の寮歌は、1905年、澤村胡夷によって作詞されたものです。次の様な歌詞の歌で、京都が、どんな街であったかが歌われています。澤村は、1903年に三高に入学しており、在校時に作詞していますが、その七五調の歌詞の文才に驚かされます。

1.紅萠ゆる丘の花
早緑匂ふ岸の色
都の花に嘯けば
月こそかゝれ吉田山

2.緑の夏の芝露に
残れる星を仰ぐ時
希望は高く溢れつゝ
我等が胸に湧返る

3.千載秋の水清く
銀漢空にさゆる時
通へる夢は崑崙の
高嶺の此方戈壁の原

4.ラインの城やアルペンの
谷間の氷雨なだれ雪
夕は辿る北溟の
日の影暗き冬の波

5.鳴呼故里よ野よ花よ
こゝにも萠ゆる六百の
光も胸も春の戸に
嘯き見ずや古都の月

6.それ京洛の岸に散る
三年の秋の初紅葉
それ京洛の山に咲く
三年の春の花嵐

7.左手の書にうなづきつ
夕の風に吟ずれば
砕けて飛べる白雲の
空には高し如意ヶ嶽

8.神楽ヶ丘の初時雨
老樹の梢傳ふ時
檠燈かゝげ口誦む
先哲至理の教にも

9.嗚呼又遠き二千年
血潮の史や西の子の
栄枯の跡を思ふにも
胸こそ躍れ若き身に

10.希望は照れり東海の
み富士の裾の山桜
歴史を誇る二千載
神武の子等が起てる今

11.見よ洛陽の花霞
櫻の下の男の子等が
今逍遙に月白く
静に照れり吉田山

 三高(京都大学)には関わりがありませんが、この京都は、何と言っても、父が母が結婚して、最初に住んだ街であることを知ってから、自分では、そこに住むことは考えたことも、願ったこともありませんでしたが、どんな街か興味を持ち続けてきました。父母の暮らした、昭和も戦争前の時期の京都は、どんな風情の漂う古都だったのでしょうか。市電が走ったり、生活はゆったりとして、落ち着いた街だったに違いありません。今でも、高い建造物が規制された街なのです。
.


.

 華南の街を飛び立って、関西空港に着いて、特急電車で京都に行き、そこからバスに乗って、どうしても訪ねたかったのは、京の風物詩を学んだことのあった、洛北の「大原」でした。京の街に、山道を下って、炭や薪を頭に乗せて、売り歩いた街道を歩いてみたかったので、家内と一緒に念願の投宿を、帰国の度、2回続けてしてみたのです。

 どこにもある山村でしたが、思い入れがあると、特別なのででょうか、一泊を二泊に延ばして、民宿の宿に泊まりました。中華の味に慣れていたわたしたちは、そこで夕食に出された、「味噌仕立ての鍋」が、ことのほか美味しかったのです。夕食後、壺の様な個人用の湯船に浸かっていたら、はらはらと雪が待っていたのも日本情緒を満喫させていただいた夕どきでした。

 村の喫茶店に入ったら、話好きな女主人に気に入られ、『次に来たら、家の方の玄関に訪ねていらっしゃい!』と言われたのですが、訪ねずじまいで去ってしまいました。歌で歌われるほど、寺院で有名ですが、家内も私も、お寺には関心がなく、人や人の営みにありましたので、街歩きをして、道の駅に寄ったりして、大原の静かな佇まいを楽しんだのです。

 久しぶりの日本を満喫して、バスで、京都駅に出て上京したのですが、乗る予定の電車を遅らせて、しばし京の街歩きをしてみたのです。その街中で飲んだコーヒーが美味しかったのです。京都人は、古都に住みながら、舶来の珈琲を、よく飲むのだそうで、軒を連ねて喫茶店があって、東京では見られない光景でした。modern な街でもあるのです。

.
.

 中学の修学旅行でも、訪ねたことがありました。歴史で学んでいる京都や奈良は、教科書の挿絵では感じられない、実際の様子に、日本人の〈心のふる里〉を感じさせるものがあった様でした。それよりもなによりも、バスガイドの笑顔と京言葉に、男子だけの学校の中坊のわたしたちにとっては、窓外の景色どころではなかったのを思い出して、苦笑いの今です。

 京都府は、日本海にも面していて、戦後の大陸からの66万もの引き揚げられた方々の帰港の港「舞鶴」があります。また日本海沿岸の港に寄港して、物資を運んだ北前船の主要な寄港地で、若狭街道の宿場町でもありました。京の都にも近くて、大変に栄えた商都でした。何よりも京都は、平安京の都であったことで、かつての日本の中心であったわけです。今住む下野国は、さらに「陸奥(みちのく)」の東北地方の入り口で、京都からは、随分と遠隔の地だったのでしょう。

 人口が255万、府都は京都市、府花は枝垂れ桜・嵯峨菊・撫子、府木は北山杉、府鳥はオオミズナギドリ、県の75%は山地なのです。府の北に、福知山という地があり、母の故郷に帰って行く途中に通過駅がありました。旧国鉄の福知山線の駅なのです。八歳の時の旅での駅名や駅舎の記憶が、なぜか鮮明なのです。丹波の地あって、藍染で古来有名な街です。

 明治を迎えて、首都機能を東京に譲った後、画期的な出来事は、わたしにとっては、「同志社」の誕生なのです。アメリカに密航し、請われて使節団の通訳をした新島が、帰国してから、維新政府の外務に携わるのではなく、着手したのは「キリスト教主義の教育」でした。その開校する英学校を、京都に求めたのです。名だたる寺院や神社の多い街で、長く禁教されて、その時も激しい反対のあった時代、キリストの旗印を、恐れずに掲げたのは、驚くべきことだったと思うのです。

 新島のことばに、『教育と宗教を併行せしむるにあり。』があります。神を知り、神を畏れ、神に従う人を養成することを掲げて、信仰と教育を一つにしようとした同志社は、今も関西私学の雄であります。有為な人材を、この学校は輩出しますが、新島自身は、46代で没してしまいます。私は、そこで学んでみたかったのですが、叶いませんでした。

.

.

 わたしたちの住む栃木の隣県の安中には、同志社開学前に、新島が伝道して建て上げられたキリスト教会が、今もあります。戦後に、revival があったそうで、たくさんの人たちが救われ、受洗をしたのですが、江戸期よりもなおも激しい弾圧の中での、新島襄の挑戦的な宣教への志は、大変なものだったに違いありません。

 わたしを教え導いてくださったアメリカ人宣教師は、日本の「要の街」と、京都を捉えていて、この地で、生涯の最後の宣教をされました。九州、北海道、関東、中部と宣教に働きをして、最後は、この京都でしたが、病を得て、大阪の病院から東京に移られて、66歳で帰天されたのです。日本人を愛されて、日本人に仕えた尊い器でした。

 終戦間近、アメリカ軍が、焼夷弾を落とさずに、この京の街を戦火で焼かなかった決断は、流石だと思います。ロシアのプーチンが、無差別攻撃を仕掛けている今、《良心》があるかないか、《人の命の重さ》を意識するかしないかの違いが鮮明です。九世紀の後期に、住み始め、主要な街として、都市機能を果たしてきた「キーウ(キエフ)」を、遥か西に思って、また悲しさがつのります。

(「嵯峨菊」、「舞鶴港」、京名物「八ツ橋」です)

.