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1897年(明治30年)に、「若菜集」と言う詩集が発刊されました。島崎藤村の書いたものです。その詩集に、「初恋」と言う詩が所収されています。
まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれない)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな
林檎畑の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
先日、次女から facetime がありました。子どもたちは、それぞれに用があって出掛けており、婿殿も仕事中、彼女は暇をしていたのか、親元に近況を伝えてきたのです。
最近の子どもたちや友人、私たちの知人のことなどを話し始めて、上の息子の話になりました。その三日ほど前に、Coast にいる、愛妻を亡くしたお父さんを、家族で訪ねた時の写真が、message と共に送られてきていたのです。その写真に、孫たちの間に、一人のお嬢さんが写っていました。私たちにとっては外孫、彼の友だちだそうで、名前も書いてありました。
しばらく前に、他の州から越して来られ、同じ教会のメンバーで、行き来があるのだそうです。そのお嬢さんが『好きだ!』と、親に打ち明けたのだそうです。それを知って、きっと母親としては〈複雑〉な思いに揺れたのでしょう、なんとなく私たちに知らせるための連絡でした。
娘が結婚してから、間も無く日本にやって来て、長野県下の高校で、婿殿が英語教師をしていたのです。それからしばらくして妊娠した娘は、胎児のエコー写真を、私たちの家を訪ねた時に、母親になる喜びで見せてくれたのです。しばらくして、彼らの家を家内と二人で訪ねた日は、市立病院の診察日だったのです。しばらくして帰ってたのですが、二人とも車から降りて来ませんでした。
実は、胎児が亡くなっていて、それを知らせるのを躊躇していたか、悲しみで、私たちの前に立てなかったのか、辛い経験があったわけです。私たちは、彼らを慰めて、別れを告げて、甲府の家に帰ったのです。それからしばらくして、赤ちゃんができたことを知らせてきました。
その赤ちゃんが、生まれた時、牧師会が熊本であって、家内と私は、二人で出掛けていました。その訪問先の友人宅に、産後直後に、とても嬉しそうに、『男の子が生まれたの!』と知れせてくれた、その子の《初恋》を、今朝知らせてきたわけです。お母さんには、そんな経緯で生まれた子が、初恋の相手に奪われるような思いがあるのでしょうか。心の思いが揺れるのでしょうか。
そんなこと言ったら、ゲンコツをもらいそうで、わたしは言えなかったのに、孫は、両親に、そのことを告白したのです。秘密にしないで、心の中に芽生えた恋心を知らせたのです。娘曰くそれは《初恋宣言》でした。ほかの子に、そのお嬢さんに approach をかけられる前に、はっきりと表明をしたわけだと言うのです。
二人の様子を、これから安心して眺めていけるのは、素晴らしいではないでしょうか。多くの若者たちが秘密裏に、コソコソとするのですが、孫ベーは、隠し立てをしなかったわけです。思春期の大切な感情の発露を、愛でて祝福しようと決心したのです。
相手を大切にして、互いが励ましあったり、学びあって、その恋が、どのように導かれていくかを、見守ってくれる双方の両親と、そして何よりも、そのような感情を、与えてくださった創造の神さまの前に表明し、心の中に置いたと言うことは、感謝だなと思っています。
乱雑で密やかな恋がもてはされて、結局は、傷つけたり傷ついてしまう若者の多い現代、幼い恋愛を大切にしてあげるのが、太平洋を隔てた此方のジイジとバアバのして上げられることなのでしょう。近所の女の子、クラスメート、年上の先輩など、気の多い自分が好きだった女(ひと)を思い出して、そっと家内を見てしまいました。
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