瓦礫の中のショパン

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 長期戦になると伝えられている「ウクライナ戦争」に心痛めているわたしは、以前観た「戦場のピアニスト」と言う映画を思い出しています。この映画の圧巻は、爆撃され倒壊したガレキの中から、ショパンの名曲が聞こえてくる場面です。廃墟のガレキの中に、まるで、「いのち」が注入されるかのように、吸い込まれて行くのです。

 戦争で荒廃したのは街だけではなく、人の心でした。ドイツ軍将校の前で、ピアノが弾かれるのですが、渇き切ったナチス・ドイツの将校の心の中にも、流れ込んで行きます。戦場でも、人間の営みの高貴さが残され、音楽の素晴らしさと言うよりは、「高尚な世界」が乱世の中にも残されていたのだと言うような、強烈な印象を受けたのです。

 その映画を観た直後に、近くの町の図書館で、講演会があり、時間がありましたので、家内と一緒に聴きに行ってみました。演者は、当時、拓殖大学の客員教授で、「日本史」を研究されているスピルマン氏で、この映画の主人公の実の息子さんだったのです。彼は、1951年の、第二次世界大戦後に生まれた方で、父39才の子だと言っておられました。 

 その講演では、ユダヤ人の民族的背景を持っている彼が、自分の父を客観的な目で語っておられました。ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)で、父や母や親族や友人を失った父スピルマンは、生き残ったことの罪責感に苦しんで戦後を生きたそうです。父から戦時下の体験をまったく聞いたことのなかった彼は、父が、1945年に著わした「戦場のピアニスト」という本を、12才の時に見つけて読むのです。それで父の体験を初めて知ります。彼がまったく父の過去を知らなかったのは、話してくれる親族が死んでいなかったからでもありました。

 父スピルマンは、戦後を忙しく生きることで、その体験を思い出さないようにしていたそうです。そのような父親でしたが、年をとるにつれ、忙しくなくなるとポツリポツリと、長男である彼に体験談を語ったのだそうです。その本が再び日の目を見たのは、ドイツ語訳で、1987年に再版されてからでした。そうしますと話題をさらって、英訳や仏訳が刊行され、すぐに完売してしまいます。映画監督のポランスキーの手で「映画化」が決まりました。その翌年の2000年7月5日に、父スピルマンは召されて逝きます。

 ご自分の父を、『彼は真面目だった!』と言っていました。1つは音楽に関してです。音楽を食べるための道具にしなかったのだそうです。どのようなジャンルの音楽にも関心を向けたそうです。ジャズも好きだったそうです。そして極限の中で、自分が発狂することもなく、自殺からも免れることが出来たのは「音楽」だったそうです。

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 もう1つは「人種問題」でした。『人を個人として見るように!』と、息子の彼に言い続けたそうです。『どの民族にも、よい人も悪い人もいること。民族全体が悪いのではない。ドイツ人だって、みんなが悪いのではない!』そういった信念の人だったようです。

 でもユダヤ人の血と言うのでしょうか、アブラハムの末裔といったら言いのでしょうか、この父スピルマンの信念や生き方は、やはりユダヤ的なのではないかと感じられました。映画の中に出て来た、あのドイツ人将校は、カトリックの信者で、ドイツの敗色が強くなったので、助命のために父スピルマンに親切にしたのではなく、いつも常に、人道的に親切な人だったようです。あの時のヒーローは、父ではなく、父を命がけで助けたワルシャワの友人たち、そしてあのドイツ人将校だったと言っていました。

 一時間半ほどの講演でしたが、聖書の民の1つの足跡に触れることが出来、とても感謝なひと時でした。この父あってこの息子でした。どのような名の下に、どのような理由の下になされても、『戦争反対!』を叫びたい、間も無く六月を迎えようとしてる今です。

 

(破壊前のウクライナの首都・キーウです)

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