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『日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113篇3節)』
『主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。 (詩篇103篇22節)』
『わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。 (詩篇104篇1節)』
『大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。 (詩篇150篇2〜3節)』
このブログを読んでくださるみなさんは、このブログの書く内容や論調が変わっているのに気づかれておいでだと思います。中国の東北部の街の語学学校に入学した頃から、始めたのですが、自分の信仰上のことは、間接的にしか述べませんでしたが、13年の滞在から帰国した段階で、まだ向こうにも読んでくださる方がおいでですから、とくに信仰上の内容を述べるのを避けていました。でも、はっきりと述べるようにと促されて、変えてしまいました。
《動画を貼り付けました》
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それで論調が変わったのです。もともと子どもや孫に、自分の考えや思いを伝えるとつもりでしたが、やがて知人や友人、兄弟たちにも、読んでいただくようになってきました。これまで二度、実はブログが block された経験上、政治や経済や宗教の件には触れずにいました。でも、自在に自分の信仰上のことを書こうと決心して、内容も論調も徐々に変えたのです。
さて、上記の聖書のことばですが、「日の上るところから」という箇所ですが、七世紀頃、中国は隋の時代に、その大陸から見るとわたしたちの国は、朝日が地球上で最初に昇ってくる国ということで、「日の出る処」と呼ばれ、自らも誇り高い国と自認したのではないでしょうか。
この国で、天地を造られ、その運行を支配される神、万物のいのちの付与者、罪に堕ちた人を救われるお方、贖罪の御業をなさるお方、救い主イエスさまの十字架の死と、死からの復活、父の神の右の座の執り成しの祈り、助け主聖霊をお遣わしくださったこと、やがて信ずる者を迎えにおいでくださる神が、日本でも賛美され、ほめたたえられ、栄光が帰されるようになるとの予言なのです。
この街の東武宇都宮線、日光線、JR両毛線の駅頭にも、角笛、十弦の琴、立琴ならずも、廃校になった藤岡中学校から市に帰贈されたピアノが弾かれて、自由に演奏ができる様になりました。聖歌や讃美歌やchorus が高らかに響き渡って、この「三で一つの神」の御名が、ほめたたえられ、あがめられるなら、それは素晴らしいことではないでしょうか。
主の名が、明治以降、この街の各教会の礼拝の中で賛美されているのですが、駅頭でも賛美されると、この街が変わっていくのではと思っております。エペソの街の獄屋の中で、パウロとシラスが賛美した時に、それを聞いた天のみ使いたちが、tap を踏んだのでしょう、地震が起こり、獄の戸や囚人の鎖が解けて落ちた様に、人々を縛っている不信仰、不安、恐れなどの鎖が落ちるのではないかと思うのです。家内のピアノでのわずかな時間の賛美によって、そんな救いの御業が起こることを願っている、五月の連休明け家内です。
(「キリスト教クリップアート」、動画です)
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