「栄冠は君に輝く」
雲は湧(わ)き 光あふれて
天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
まなじりは 歓呼に答え
いさぎよし 微笑(ほほえ)む希望
ああ 栄冠は 君に輝く
風を打ち 大地を蹴(け)りて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ
若人よ いざ
一球に 一打に賭(か)けて
青春の 讃歌を綴(つづ)れ
ああ 栄冠は 君に輝く
空を切る 球の命に
通うもの 美しく匂える健康
若人よ いざ
緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす
感激を 目蓋(まぶた)に描け
ああ 栄冠は 君に輝く(加賀大介作詞・古関裕而作曲)
1958年、昭和33年の夏、甲子園球場で行われた第40回全国高等学校野球選手権大会で優勝したのは、福岡県代表の柳井商業高校でした。この大会の出場校で注目されたのは、戦後初めて沖縄代表として首里高校が出場したことでした。
その年は、47都道府県から、一校ずつが出場した記念大会だったのです。第一回戦で、福井県代表の敦賀高校と対戦し、惜しくも1対3のスコアーで敗れてしまいました。甲子園のグラウンドの土をビニールに入れて、沖縄に持ち帰ったのですが、「外国の土」だと言う植物検疫上の理由で、悔しくも海に捨てさせられてしまったのです。
この大会では、東京都の代表となったのが、明治高校でした。すぐ上の兄も、甲子園を目指した高校球児だったのです。今では、東京都からは東西二校が選出されていますが、厳しいトーナメント戦の結果、明治大学の系列校の明治高校の一校だけの出場でした。
同じ学校の敷地のグラウンドでは、野球やハンドボールの練習が行われ、体育館では中学校の籠球部(バスケットボール)練習が、高校生と一緒に行われ、私は中学2年で、兄弟で汗をかいていました。
「甲子園の土」は、那覇港の海に捨てられたのですが、日本航空の一人の客室乗務員の方が、40個ほどの小石を、グラウンドから集めて、首里高校の野球部に届けたのだそうです。今も、その石は、首里高校の校内の甲子園出場記念碑の中に埋め込まれてあるそうです。
沖縄が、日本本土の scapegoat の様にしてあり続けたことに、ただ感謝するばかりです。戦後の国防問題、国境問題、極東問題の渦中で、米軍基地を設け続けて、犠牲を払ったくださったわけです。琉球王朝や薩摩藩の領地などの過去と今、そしてこれからの日本にとっても、重要な位置にあるのでしょう。一言、『にふぇーでーびる(琉球方言で “ ありがとう” です)!』と言いたいのです。
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