平和を希求する

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 この5月15日に、《沖縄返還五十周年》を迎えました。長男が生まれた年1972年のことでした。沖縄が日本に復帰したことは、本当の意味で戦争が終結した年だったのかも知れません。

 「戦争と孤児」、戦争が子どもたちから、父親を奪い去ります。そして戦争が、父なし子を、占領地に産み落とすのです。たとえ戦争に正義の戦争があったとしても、この子たちにとっての戦争は、人道上の犯罪、生命軽視に違いありません。お父さんの遺品の軍帽をかぶって、別府の町でチャンバラごっこをして、少年期を過ごしたことを、話してくれた級友がいました。

 彼のお父さんは、中国の各地を転戦した職業軍人でした。敗戦と同時に、蒋介石率いる「国民軍」に参加して、中国大陸で戦死するのです。彼には、高名な陸軍大将だったおじさんがいましたし、お国のために戦い、主義主張のために死んでいった父親への誇りがあったに違いありません。

 それでも、写真に写ったお父さんの面影しか知らない、抱かれた実感を持たない青年だったのです。戦争は、彼から父親を奪い去ったことになりますし、彼の子どもたちから、おじいちゃんを取り去ったことになります。

 私の父は、戦争中に、軍需工場の工場長をしていました。零戦の戦闘機や爆撃機の部品の生産にかかわる仕事をしていたのですから、私は、陸軍が父に支払った俸給で買った食料で生きていた母の母乳や、購入したミルクや離乳食で育てられたことになります。

 それででしょうか、私は戦後に育った子であるのに、軍国少年魂を、亡霊のように内に宿して、予科練に憧れていたのです。『若い血潮の予科練は・・』と、七つボタンで身を包んでいるような錯覚に陥った私は、そう高吟するのが好きでした。

 そんな私を見て、『予科練ではなく海軍予備学生に憧れなさい!』と母が言うのでした。母には、広島・江田島にあった海軍兵学校に通い、戦死した幼馴染がいたのです。その母が結婚したのも、横須賀の海軍一家の青年だったのです。父のことですが。

 そんな背景の私は、平和を与えられ、救援物資で養ってくれたアメリカを敵国だと思っていました。でも、『こんな非道なことをする日本人が変えられるのは、福音以外にはない!』、そう願う、アメリカの教会から遣わされた宣教師の建てられた教会に、母が導かれるのです。私たち4人の兄弟は、その教会で信仰を持ったのです。そして上の兄と私は献身させていただきました。

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 そして私は、アメリカ人宣教師から聖書の読み方や学び方や組織神学、さらには妻の愛し方や子どもの育て方まで教わるはめになるのです。軍国少年が、元アメリカ空軍のパイロットと至近の距離にいて、7年間共に働き、学ばされたのですから、彼の忍耐がどれほどだったか想像に難くありません。

 イエスさまは、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣によって滅びます(マタイ26・52)」とおっしゃいました。私は、自分の腰にではなく、心の中に吊り下げていた剣を捨てる必要があったのです。生まれながらに受け継ぎ、自ら好んで求めた「軍国主義の霊」とか「軍国少年魂」と言うものがあるのでしょうね。そういった亡霊や精神を取り扱われ、除くのは、一筋なわでは行かないことだったようです。今は、天のふるさとにお帰りになられた宣教師さんに心からの感謝を覚えるのです。

 真珠湾攻撃の攻撃隊長であった、淵田美津雄さんという方が、戦後クリスチャンになられて、伝道者の道を歩まれました。中野にあった教会で、この方のお話を聞いたことがあります。父の世代の方でした。軍人が、柔和な表情の伝道者になっておられたのですから、喧嘩に明け暮れ、心のすさんでいた軍国少年だって、「天国の使いっぱしり」にはなれるんだ、と思はされた出会いでありました。

そういえば、私を育ててくださった宣教師は、有名な工科大学を出て、軍に籍を置いていましたが、一人の日本への宣教師と、テキサスの街で出会い、その潔く堅固な人格に触れて、彼もまた宣教師となって、日本にやって来られた方でした。

 日本が敗戦間近に生まれ、戦争放棄をした戦後に、私は育ったのです。小学生の始め頃は朝鮮戦争、青年期にはヴェトナム戦争があり、それ以上に東西の零戦の時代が、長く続いたのです。湾岸戦争などがあって、今はウクライナへのロシアの侵攻があって、戦争の噂や戦闘が止みません。やがて、イスラエルの都、エルサレムに進軍して行くのでしょうか。ただウクライナの地に「平和」が戻ることを希求するばかりです。 

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