どの社会でも同じで、名門や良い家柄、高学歴、良い職業、一等地に居住するなどによって、人の価値が測られるのは、そう言った経歴や背景に大きな価値を社会が置くからなのでしょう。『実は有名校出身なんです!』と、紹介される人がいますし、『〇〇の同窓で後輩なんです!』と誇らしく言う人もいます。『近所に△△さんが住んでいるんです!』と、何も関係がなさそうなのに、人は、そう言いたがるのでしょう。
神さまは、そんな人の基準で、人をご覧になられないのだと、聖書は記しています。何か資格や能力を持っているかどうか、良いことをしたかどうかなどには関わらずに、わたしたちに向かって、「高価」があり、「尊い」存在で、「愛している」と言われます。万物の創造者、全天全地の統治者、罪を身代わりに贖われる救い主、いのちの付与者、罪を犯した者を赦してくださる神が、そう断言しています。
イスラエルに、「エフタ」と言う遊女の子が出てきます(士師11章1節)。正妻の子の男の子たちが成長した時、嫡出の子でないエフタを父の上から追い出します。父の家から逃げて出たエフタの周りに、〈ごろつき〉が集まり、彼は頭となって屈強の集団を形成したのです。イスラエルがアモン人と戦った時に、劣勢のイスラエルのギルアデの長老たちは、「首領」になってくれるよう頼みます。黒社会のエフタを、神は用いて、イスラエルに勝利をもたらしたのです。
「ゲラサ」の地の墓場に住む男の人は、悪霊に支配されていました。人々は彼を、鎖や足かせでつないで監視するばかりでした。同じ街に住みながら、迷惑で邪魔な奴として、『死んでしまえ!』とばかり墓に置いたのです。ところが居合わせたイエスさまは、この人に名前を聞くと、『レギオンです』と、彼の内なる悪霊が答えます。多くの悪霊が住み着いていたからです。イエスさまは、それらから解放されます。解放されたこの人は、「正気に返って、すわっていた。(ルカ8章35節)」のです。神の御子は、人としての《尊厳》を、彼の内に認めたからでした。
パリサイ人や律法学者たちによって、「姦淫の現場で捕らえら女性」が、道端にうずくまっていました(ヨハネ8章3節)。彼女の周りには、興味津々の人の群れがありました。モーセの律法の書には「石打ち刑」に値する罪でした。律法を重んじないイエスさまを陥し入れるために試したのです。イエスさまは、罪のないものが石で、女を打つ様に言いました。誰一人、石を手にして投げることができずに、一人一人、その場を去って行きます。誰も、このじょせいを断罪できなかったわけです。残されたこの女性に、罪に定めることのできるイエスさまは、赦し、罪を犯さずに生きるように言われたのです。
ある村に、「十人のライ病人(ツァラアト)」がいました(ルカ17章彼らは、群衆の中に入ることができず、隔絶され区別され差別された場所にいました。非業の病に冒された人が、イエスに出会ったのです。彼らは遠く離れた所に立って、 「どうぞあわれんでください」懇願したのです。イエスさまは全員清められたのですが、「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て」、イエスさまに感謝をしています。救いの選びに外れていた外国人でした。イエスさまは、人の作った垣根や塀や差別を越えて、声をかけ近づき触れてくださるお方なのです。
売国奴と言われた、取税人の頭であった「ザアカイ」が、いちじく桑の木に登り、生い茂った葉の間からイエスさまが、どんなお方かを見ていました(ルカ19章2節)。イエスさまは、彼の名も、仕事もご存知でした。イエスさまの方から声をかけ、木から降りる様に促されます。そして、「あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。世間の目や評価に邪魔されずに、罪人の家の客になると言ったわけです。ザアカイは、騙し取ったものの返済を決意するのです。経済的には恵まれていても、劣等感や孤独感などに苛まれた、心を許せる友もいないザアカイの「友」とも、「救い主」とも、イエスさまはなられたわけです。
こう言った人たちを、きっと「高価」で「尊く」、愛の対象とされたのでしょう。基督者の母に育てられ、父も召される一週間ほどに罪を悔い改め、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます(使徒16章31節)」と言う恩恵に浴したわたしですが、四人の子たちも、この約束に預かって今日があります。このわたしにも、「高価で尊い」、「愛している」と言ってくださいました。
(「ある信徒」として投稿されたイラストと聖書です)
.