埼玉県

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 長男家族が住んでいて、中国にいる間中、彼と住所を同じにしてもらったので、家内と二人、しばらく埼玉県民でした。中学校の同級生や上級生が、飯能や東村山から来ていて、何度も国分寺から西武線に乗って出かけたことがあります。どこの駅だったか忘れてしましたが、埼玉県下の乗り換え駅で、停車中の電車の最後部の車掌室に入り込んで、ドアーの開閉ボタンを操作してしまって、こっぴどく車掌や駅長に叱られたことがありました。

 車掌室で、どう言った手順で操作するのか、幼い頃から、興味津々で見て知っていたので、two cushion (二段階)で上から下へ、下から上にボタンを入れ替えるのです。お客さんの乗り降りがなかったので、ドアーに挟まったりしないですんだのは、幸いでした。蛇腹(じゃばら)の制服を着ていたので、どこの中学生かが分かっていたのですが、警察にも学校にも通報されず、ただ厳重注意で済んでしまいました。突拍子もない悪戯小僧でしたが、バスケットボール部で、埼玉の American school  に、中学校の日米親睦の練習試合に行った時でした。そんな関わりが、埼玉県とありました。
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 河岸段丘の「長瀞(ながとろ)」は、中学校の遠足で出かけたことがありました。荒川の流れの侵食による景観は、大正時代に天然記念物に指定されて以来、関東圏の研究者や観光客には人気の地形を誇っています。先日も長男家族が、ここを訪ねたとかで、数葉の写真が送られてきました。

 徳川幕府の親藩で、重要な位置をしめていた「川越」が、ここ栃木や佐原(千葉県)と同じように、「小江戸」と呼ばれて、江戸時代には栄えていました。東京からは江戸が消えてしまったのですが、栃木や佐原に並んで、江戸を感じさせてくれる街並みが、この川越には残されていて、観光客を呼んでいます。ここに「年金事務所」があって、年金の受給申請のために何度も通いました。

 かつては、「武蔵国」で、「さきたま」と呼ばれたのが、「埼玉県」です。江戸からも近かったので、荒川の「舟運」が、利根川、渡良瀬川、巴波川の舟運の栃木と同じで、栄えていたのです。志木市役所のそばにも、「河岸」跡が残されているのを見つけたことがあります。

 さらに志木の北に「行田市」があって、古墳群の街として有名です。隣の熊谷には、家内の従兄弟が住んでいて、行田を通過すると、首を長くして古墳を見ようとしますが、秩父鉄道の駅からは、距離があって見ることができませんでした。
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 そこには「埼玉県立さきたま史跡の博物館」があって、出掛けてみたくてウズウズしています。その稲荷山古墳から、1968年に、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が出土して、大騒ぎになったことがありました。百十五の文字が、「金象嵌(きんぞうがん)」で刻まれています。また、1873年(明治6年)に

、熊本県玉名郡和水町(当時は白川県)にある「江田船山古墳」からは、「銀象嵌の銘文を有する鉄刀」が出土していました。

 「辛亥年七月中」と刻まれていますから、紀元471年(531年説もあります)に当たるようです。中国では、「宋」の時代、ヨーロッパでは、東ローマ帝国の時代で、皇帝レオ1世の晩年の頃です。日本の歴史は、残念ながら文書による記録が残されていないのです。庶民は同じように生産に携わり、生活をしており、一方豪族たちは、権力闘争などが繰り広げられていたのでしょう。

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 埼玉と熊本とは、相当な距離があるのですが、同じような剣が出土しているには、交流があったことを証明しています。どんな関係があったのでしょうか、興味津々です。物言わない遺物からは、まあ想像する以外に何もできないわけです。古代の日本人の営みが、一部分でも知ることができたことは、素晴らしいことです。

 21世紀、ここ埼玉県は東京経済圏で、県との境界線を超えた緊密な関係が、とくに東京都との間にあります。長男はお茶の水に通っています。私鉄が、地下鉄と相互乗り入れで、横浜の中華街まで、乗り換えなしで通勤通学可能です。

 律令制の下で「武蔵国」の北部にあたります。今では、人口735万人を数え、全国規模で第4位に位置しています。多くの「日本一」が、埼玉県にはあるようです。教育熱が熱いのでしょうか、「学習塾」、「教育費の割合」、「図書貸出数」などが最多です。学習の余暇に食べたくなりそうな、「アイスクリーム」、「ケーキ」などの消費が多いのだそうです。

 じっくりと落ち着いて住んだ覚えがないので、住んだ実感がないまま、栃木県民になってしまいました。長く住んだ中部の街から、野球小僧の長男、弟妹、友だちを車に乗せて、所沢にある西武球場に何度も何度も西武戦を観に行ったことでしょうか。東京ドームには、行かずじまいでした。
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