花と緑の葉

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 今年の51日に、隣町の壬生町に出かけました。塚の古跡があるということと、散歩を兼ねて、東武線の壬生駅で下車して歩いた訪ねたのです。豪族の墓塚の車塚、牛塚が、整備されてありました。集落の傍にか、川の傍にあるのか、集落は川の近くに作られたのでしょう、南北に「黒川」が流れていたのです。

 「日本奥地紀行」を著したイザベラ・バードが、『よく手入れされた麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感した。」と書き残した、「鹿沼」が、この黒川の上流に位置しています。栃木で、街の名として覚えていたのは、日光、那須と鹿沼でした。子どもの頃から、「鹿沼土(上の写真)」が、盆栽家庭菜園などで使われていると聞いていたので、どこにあるかを確かめなかったのですが、東武日光線に乗るようになって知ったのです。
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 この鹿沼土は、火山の赤城山から噴出し、火砕流がもたらす軽石で、造陸造山活動で、地表に流出した物です。歳をとって、時間ができたのか、コンクリートの中に住んでいるからでしょうか、遠くの大平山の緑は目にできるのですが、身近に緑が欲しいと思っているところに、子どもたちが送ってくれた物が置かれて、目を楽しませてくれています。

 市内を運行する、ゆうゆうバスに乗って市立花センターやカインズの花売り場に行くと欲しくなったりして、買ってしまった物もあります。この夏前から、ミニトマトや朝顔が勢いよく咲いて、緑だけではなく実もあるベランダでした。
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 遠くの緑とベランダの緑に、どんなに慰められたことでしょうか。今も写真のように、素敵な花と葉を見せてくれています。平家に住んだら、庭に棚を作って、鹿沼土を買って、園芸に精出したい願いがあります。狭いベランダの活用が、今は課題です。

賛美

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 『神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。(詩篇1449節)』

 中学の頃から245才まで、母に誘われて時々、特別集会には出たことがありました。でも、聖書研究会にも、祈り会にも、もちろん日曜日の礼拝に行くようになったのが、25才の頃でした。その頃、よく集会の中で歌われていた のが、chorus でした。聖書のことばに melody をつけたものでした。ニューヨークから来た神学校の教師が、アフリカで宣教する教え子たちを応援するための旅行の途中に、私たちの教会を訪ねてくれた時でした。

 この方が、アメリカの一部の教会で、賛美し始めていた “ Making melody in my heart /心の中でメロディーをなど、何曲か紹介てくれて、それを日本語に翻訳して歌い始めたのです。讃美歌は素晴らしいし、聖歌も素晴らしいのですが、「新しい歌」を歌って賛美するのも聖書の勧めですから、それが新しい世界的な潮流で、賛美礼拝で起こり始めていたのです。

 その後、またたく間に、日本にもアジアにも、ヨーロッパにもアフリカにもオーストラリアにも広がっていきました。その反面、『おかしなことが起きている!』と、新しい動きを危惧する声が、伝統的な教派や教会に上がってきていました。厳かな賛美歌で賛美をしてきたみなさんには、奇異にも、異端にも聞こえたのかも知れません。

 でも音楽的にも水準の高い新しい賛美ですし、なによりも、詞と melody を、神から与えられたものが、ほとんどでしたから、聖書的でした。それが、若いみなさんに受け入れられ、多くの教会の礼拝でも歌われるようになりました。私たちが集った中国の教会でも、台湾やシンガポールを経由して、礼拝で賛美されるようになったのです。音楽を学んだこともない方に、詞や melody が与えられて、「新しい歌」が歌われ、多くの教会で涙ながらの感謝に内に賛美されているのです。

なが瞳のように守り 死ぬことのないように                 御翼の影に われを匿いたまえ                 (『私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。(詩篇178節)』)

わたしは静かに神を待つ わたしの救いは神から来る             わたしは決して揺るがない わたしの救いは神から来る               (『私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。(詩篇625節)』)

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 この賛美に励まされて、教会で奉仕し、大陸の教会でも仕えることをしてまいりました。私たちの信じる神は、

 『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。(詩篇223節)』

とおっしゃる神だからです。その神が選ばれたイスラエル民族や基督教会の賛美の中に、ご自分を顕し、そこを住まいとされる驚くべき神だと、ダビデは賛美したのです。

(“ キリスト教クリップアート” から

です)

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新潟県

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 上越市に、ずいぶん前になるでしょうか、家内を誘って出かけたことがありました。上杉謙信の居城・春日山城のある街で、市内を流れる川に架かる橋の中ほどで、この街のに、神の祝福を、ふたりで祈ったのです。日本海側の街を見たくなっての旅でした。太平洋側と違って、太陽の輝く日が少ない県、街だと聞きました。

 次男は、新潟市内の高校に入学し、家内と長男と一緒に、入学式に出かけたり、運動会を見学をしたことがありました。『弁当忘れても、傘忘れるな!』と言う諺があるほど、雨天や曇天の日が多く、運動会当日も、グランドが田んぼのような中、教職員や生徒たちが、砂を撒いて行われていました。

 その帰りに、ガソリンスタンドでガソリンを入れていた時、店主が、お国自慢をしていたのです。と言うよりは、総理大臣・田中角栄自慢でした。新幹線や道路整備、トンネルの敷設、港湾整備など、地元への貢献に対する県民一般の感謝が溢れていました。こちらから聞き出したのではなく、越後といえば雪と米と角栄だからで、他県人は忘れてしまっても、越後人には忘れられない、人だったのです。

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 息子を訪ねて、三人での帰りに、上越道のサーヴィスエリヤで、「魚沼産コシヒカリ」を買って帰りました。冷たい沢の水で育てられた米は美味しいのです。中国の北にある黒竜江省でも、「あきた小町」や「コシヒカリ」が生産されていて、スーパーの米売り場にも、道端の商店にも置かれて売られていました。懐かしくて、つい買ってしまったのです。

 河南省の村に、二人の子どもを残し、おじいちゃんとおばあちゃんに子育てをお願いし、現金収入の出稼ぎに来ている、華南の街で出会ったご夫婦が、いつも米を担いで訪ねてきて、帰国するまで買わずに済んだほどでした。お百姓さんが丹精して生産した穀物も野菜も農産加工品も、どこの国でも美味しいのです。新潟も農業県で、日本の食糧を支えている県でもあります。

 この新潟は、「瞽女(ごぜ/盲御前から、そう呼ばれたようです)」の故郷だったと思います。目の不自由さを負いながら、逞しく生きていくために生きていくために、子どもの頃から、厳しい練習を積み重ねて、三味線の練習に励んで、一人前になったのです。辻や門口に立って歌って、何がしかのお足や食料を得て生きていた、旅芸人です。「最後の瞽女」と呼ばれ、三条市の名誉市民であった小林ハルさんの演奏、哀調に満ちた声の歌を聞いたことがありました。

 芸能の少なかった地方での活動は、全国的に広がって行ったそうで、その中で、「越後瞽女」が一番有名だったようです。ハルさんの『よい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行!』と言う、ハルさんのことばは、どう人と関わって生きるかの積極的なあり方を教えてくれました。

 私の勤めた職場に、新潟県で県立高校の校長をなさった方おいででした。当時、おいくつくらいだったのでしょうか、書が上手で、昼休みのバトミントンの対決も、元気一杯の方でした。私に転職の勧めをしてくださった方だったのです。その思いが通じたのでしょうか、都内の高校から招聘されたのですが、一度、電話を職場にくださったのです。偉ぶらない気さくな方でした。

 そう忘れてはいけないのは、新潟県教員試験を受けたことがありました。見事不合格でした。万が一はあり得ないのですが、受かっていたら、越後で、情に熱く、辛抱強さがあり、『嫁は越後から!』と言われていますから、そんな嫁をもらっていたかも知れません。糟糠の妻は、大阪生まれで、東京育ちですが、越後女性のようです。新潟は離婚率の低さが特徴だと言われています。添い遂げる強さがあるからでしょう。
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 米所の越後は、煎餅も美味しく、あの「柿の種」は、新潟の企業が生産していて、帰国以来、菓子入れに欠かさなかったのですが、体調管理のために、最近は買うことも、食べることもなくなってしまいました。解禁する日が来るでしょうか。

 そう言えば佐渡には行ったことがありません。ここ栃木から、日光例幣使街道、中山道、三国街道を経て、佐渡へも行くことができたのです。もちろん、江戸の罪人が、佐渡送りにされると、この道を行ったのだそうです。難所を何度も越えての旅は、厳しいものだったことでしょう。今夏、その三国街道沿いの須川宿(みなかみ)に泊まったのですが、そこを通って、三国峠など、いくつもの峠を超えて、越後の長岡、寺泊の港から佐渡の赤泊の港へと繋がっていたのです。

 新潟県、北から下越、中越、上越と南北に長い、人口227万ほど県です。京の都とは、陸路と北前船の海路でつながっていたのです。江戸も陸路を延々と歩いて旅をしてたのを思いますと、新幹線や高速道路が、縦横に延びて、便利な時代になったものです。

(秋の「妙高高原」、「北から南に見た日本付近」です) 

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栄光

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 『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇1916節)』

 先週末の黄昏時、南の空に金星が瞬いていました。わが家のベランダから見えたのは富士山のはるか上空に輝く、宵の明星でした。じつに神秘的、ダビデが空を見上げて感嘆の声を上げたように、北関東の夕空を見上げて、私は三嘆の声を上げてしまうのです。偶然にとか、長い年月をかけてとか、爆発拡大とかしか、人は言えないのでしょう。

 地球も、数えきれない星々の中の一つだとするなら、この均衡、位置、自転、公転、傾斜、ほぼ同じ軌道の運行、山、海、川、湖、平地、海、海溝、真水、海水、霧、雪、植生、地中の資源、生命の存在、人と人の営み、保存、なんと驚くべき事実ではないでしょうか。エレミヤは,次のように記しました。

 『主はこう仰せられる。主は太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名は万軍の主。(エレミヤ3135節)』

 初めからある天体、もっと輝いて見えた夜空、家出をして枯れ草の間に寝て、夜空を仰いだ夜がありました。まさに煌めく星座、降るような星々でした。『だれが散りばめ、だれが瞬かせ、だれが押し広げたのだろうか?』、吸い込まれそうな幽玄な蒼光、孤光、独光、だれが光源を備え、備え続けているのか、見飽きることのない秋の夜空に、心が震えてしまいます。

 科学者は、130億年前に大爆発があって、星が誕生し、延々として今も星が誕生している、と言うのを聞きました。40億年前に、太陽系が誕生し、偶然に生命も誕生したのだと言います。人類の祖先の誕生は、500万年前なのだそうです。

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 これが、21世紀の科学研究の行き着く結論です。この結論に、私は満足しません。無限の広がりをもつ大宇宙に深淵があっても、それでも存在しているのを、設計図なしに、創造者なしに存在するとは思えないのです。喫茶店のソファーに座って、指を動かして、操作している、この iPad は、Apple社の技術者の設計に従って製造された物です。海の向こうの友人や娘たちの家族と、声も映像も交えて交信できるほど、優れた電子機器なのです。

 これよりも精緻に造られているのが、電子機器を操作している、ちょっと老化してしまったのですが、人間現役の私なのです。この感情、この意志、この知性、思考し、命が躍動している私に、必ず設計者がいて、命の付与者がいて、維持者がいて、回復者がいて、激励者がいるのです。生きる目的があります。そう信じて、私は生きてきました。イザヤは次のように言っています。

 『わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。 (イザヤ437節)』

 この自分が、《神の栄光》のために生きていると思うのは、そう言われる《聖書》のことばがあるからです。神に生かされている限り、いえ生きていられるから、自分の存在の目的も意義も役割も、《ある》のだと信じるのです。神を信じられる、家庭環境を備えてくれた父と母に感謝しています。とくに、少女期に基督者となり、信仰ある母の乳房をふくみ、主を畏れる母の手になる食べ物を食べ、洗濯する服を着て、敷いてくれる床に寝て育ててくれたのです。

 小学生の私の手を引いて日曜学校に連れて行き、聖書を買って与えてくれ、相談にのってくれた、賛美する母がいたからです。人の限界を教えてくれ、人のために生きることを教えてくれ、主に従って生きるようにしてもくれたのです。計り知れない大宇宙にポツンと生きる私は、神の手による創造と恢復の光輝ある作品の一つであります。

(”天体写真の世界“ の「まがたま星雲」です)

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ゴミを拾う漢(おとこ)

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 大リーグの選手になりながら、バッターボックスに立つと、目の前に落ちているゴミを見つけると、手でを拾って、ポイッと捨てるのを見て、大谷翔平選手は、気を落ち着かすための performance をしてるのかと思ったものです。

 自分も、多くの会衆の集会の講師や司会者をさせていただき、講壇に立ったのはいいのですが、緊張のあまり、いつになく上がってしまって、『落ち着かなくては!』と肝に銘じるのですが、ノドはカラカラになって、声がかすれるほど緊張した覚えがあります。何かの本に、『会衆を南瓜と思え!』と書いてあったのを思い出して、カボチャ🎃と思おうとしたのですが、残念ながら、怖そうな人の顔しか見えませんでした。

 実は、大谷翔平選手は、緊張を解くためではなかったのです。花巻東高校の一年生の時に、野球人になるべく将来を見据えて、「目標達成シート」を、恩師の勧めで作ったのです。《九九八十一(くくはちじゅういち)》、81個のマスの真ん中に、「ドラ18球団」を入れて、その周りに、8つの目標を書き込んみ、つぎつぎに書き加えたのです。その「ドラ1」の真下のマスに、《ゴミ拾い》と入れてありました。その実践が、MLB の試合のバッターボックスで、屈んでする行為、《ゴミ拾い》の実践だったのです。
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 15歳で決心して、《ドラ1》の想いを、中央に書き刻んだ翔平少年が、十数年を経て、日本のプロ球界ではなく、本場アメリカの MLB の押しも押されもしない花形選手になっても、実践しているのには驚かされるのです。あの屈んでする行為は、嫌味でもなんでもない、純真な人の行為なのです。

 〈たかが野球〉、打ち上げ花火のようなプロ野球の世界なのかも知れませんが、大谷翔平選手のは、《されどプロ野球》ではないでしょうか。ああ言った審判への会釈、選手への労いと激励、相手選手への話しかけ、どれをとっても新鮮で、素敵な仕草でした。ホームランを撃ち、勝利投手になり、盗塁を成功させる以上の魅力を感じさせられた爽やかさを教えられた、試合後に、youtube で観戦した今シーズンでした。翔平少年が、《人間性》にも注意深く生きてきたのに頷(うなず)けるのです。来季にも輝いて欲しいものです。
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福島県

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 私たちの住む街の駅から、東武日光線、東武鬼怒川線、野岩鉄道(新藤原⇄会津高原尾瀬口)、会津鉄道会津鬼怒川線(会津高原尾瀬口⇄西若松)、JR只見線(西若松⇄会津若松)と乗り継いで、福島県の会津若松市、かつては「陸奥国(むつのくに)会津」と呼ばれていましたが、そこに、線路で繋がっています。日帰りは無理ですので、家内が、もう少し元気になったら出かけてみたいと思っているのです。

 と言うのは、この会津は、「白虎隊(びゃっこたい)」で有名なのです。尊王攘夷、開国など幕末に、長州軍を幕府軍の会津藩が迎え撃ったのですが、会津は、敗北を喫してしまいます。特に、この戦いに加わった「白虎隊」の19人の少年剣士(16、7歳)が、飯盛山で自刃して果てていったのです。その1868年の出来事が、詩吟として吟じられ、昭和12年(1937年)に、作詞が島田磬也、作曲が古賀政男で歌謡曲になったのです。

1 戦雲暗く 陽は落ちて
弧城に月の影悲し
誰が吹く笛か 識らねども
今宵名残の 白虎隊

2 紅顔可憐の 少年が
死をもて守る この保塞
滝沢村の 血の雨に
濡らす白刃も 白虎隊

詩吟

南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
痛哭涙を飲んで且彷徨す
宗社亡びぬ 我が事おわる
十有九士腹を屠って斃る

3 飯盛山の 山頂に
秋吹く風は 寒けれど
忠烈今も 香に残す
花も会津の 白虎隊
花も会津の 白虎隊

この会津藩には、日新館という藩黌があり、いくつもの「什(じゅう)」と呼ばれた、十人ほどの子どもたち(六から九歳)が、それぞれに学んでいたそうです。そこには、「什の掟」がありました。
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一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。

この会津を、仕事で訪ねた次男が、タクシーを利用した時に、運転手の方が、長州(山口県)の人間は乗車を拒否するほど、明治維新前夜の「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」での会津への長州軍の仕打ちへの恨みを、今に至るまで持ち続けているのだと話したそうです。

同志社を起こした新島襄が、『彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。』と言った八重は、会津武士の娘で、戊辰戦争では、男装して大砲の打ち手として、戊辰戦争に従軍しています。

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福島県人には、忘れられない出来事のようです。現在、181万人余りの人口を擁し、農業県なのです。忘れられないのは、2011年3月11日の東日本大震災の折に、津波に襲われた、福島第一原子力発電所の倒壊事故が勃発し、その被害の甚大さに、日本は驚いたわけです。村長さんの悲痛の声が忘れられません。いまだに汚染水問題、汚染残土の処理など多くの課題を持ち続けています。

子どもたちと一緒に、茨城の海に出かけた時に、奥州三関の一つ「勿来の関(なこそのせき/いわき市)」を訪ねたことがありました。芭蕉も訪ねていて、古代に設けられた関所跡でした。行ったことはないのですが、街の名のついたラーメン、「喜多方ラーメン」が、私たちの住んでいた街にも出店して、子どもたちを誘って何度も食べたことがありました。

どんな災害にあっても、強く生き続けている福島を応援します。「がんばっぺ福島」を合言葉に、苦難に立ち向かっておいでです。男性はコツコツと働き、女性は控えめなのだそうです。

(奥会津、什の掟、自然の景観です)

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整理しました

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 今季のベランダは賑やかでした。朝顔が最後の花を咲かせて、終わりました。それで、昨夕、いろいろと咲いていた様子を思い出しながら、枯葉をつけた朝顔の蔓を切りました。棚にしていた net も取り除いて、綺麗に整理したのです。スッキリしたのですが、ちょっと寂しくなりました。来季に期待して、一区切りの秋の夕べでした。

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EMS

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EMS
Express Mail Service “ 国際スピードサーヴィス)〉と言う、海外向けの郵便サーヴィスがあります。上の娘が、書類を送って欲しいということ、近くの郵便局に行きました。そこでEMS用の封筒を買って、家に帰ったら、宛名書きが、〈所定の印刷されたものでなければいけない〉と、郵便局で言われて、印刷を開いたまではいいのですが、それではダメということで、ネットの郵便局のサイトで、作業を始めたのですが、何度も弾かれたのです。

 その作業を、長男が助けてくれたのですが、それでもダメでした。息子の地元の郵便局に聞いてもらったら、所定用紙の手書きでヨイとのことでした。それが初めから分かってたら、苦労せずに済んだのですが。それを聞いたのは、息子に丸投げでお願いしようと、送付の書類を〈速達〉で、街の本局に行って出したばかりでした。それで、電話をかけて、速達を〈差し止め〉してもらって、再び、本局に、自転車しかないので出かけたのです。

 局員の言われる通りに、各項目を書き埋めて、出しましたら、〈送付可〉とのことでした。手書きがダメのは、手紙以外のもので、書類は可だったのです。なんだか、面倒なことになってしまい、年寄り世帯では printer なんか置いてない家が多いのではないでしょうか。業務の簡素化や経費の削減化が、かえって煩雑なことになっているのではないかなとしんぱいです。

 詳しく聞かなかったのがいけませんが、説明不足もあって、前の晩から、次の日の昼過ぎまで、空回りでした。例のワクチンを打つた時にも、手続きが大変で、人もたくさん必要で、みなさんがアタフタしてやっているようで、paper が多く、簡素化、省力化ではないようで、人が多く関わってしまうのではないでしょうか。印刷代が心配になりました

 旧スーパーマーケットの建物が、ワクチン会場でしたが、案内や消毒など、なんと多くの人がいたことでしょうか。市役所の他の部門から借り出されて、みなさん〈見切り発車〉の電車に乗せられて、アッチコッチの無駄な動きが目立っていました。危機に弱い日本が気になった、コロナ騒動、EMS騒動でした。でも無事に作業が完了したので、追跡調査ができそうで、受け取る娘は安心でしょう。

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銀座四代

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 学校の裏門の近くに、都電の停留所があって、授業の休講で、銀座方面行きに飛び乗って、銀ブラを何度かしました。もう運賃がいくらだったかは忘れてしまったのですが、〈チンチン電車〉と呼ばれていたのです。帰りは、有楽町から山手線に乗って東京駅に行き、そこから中央線に乗って家に帰ったと思います。

 東京の郡部は田舎で、学校は、山手線の中にありましたが、〈華の東京〉の外れで、渋谷や新宿は身近に感じたのですが、銀座は別格でした。やっぱり〈お上りさん〉で、なるべくキョロキョロしないですまし顔で歩いても、田舎者の感じでした。

 一度だけ、帝国ホテルに一泊したことがありました。知人が部屋をとってくれて宿泊させてもらったのですが、身にそぐわない感じで、ちょっと高級過ぎて身の置き所がありませんでした。ビジネスホテルの広さがちょうど安心できるのです。

 そんな東京に、コロナの感染者が激減したので、昨日は出かけたのです。掛り付けの歯科医に、歯を診てもらうためでした。やっと口の中が落ち着いて、その歯科医院の近くに友人がいて、事務所兼教会に、彼を久しぶりに訪ねたのです。浅草の老舗の鰻屋さんの支店に連れて行ってくれ、何年ぶりでしょうか、「鰻重」を頂いてしまいました。持つものは友で、友情に感謝したのです。

 もう銀座なんて、何年も行っていませんし、用がないからです。銀座を横切って、都の事務所に、仕事で何度か出かけたり、父と教文館の社主に会いに行ったことがあったのを思い出します。

 ここ栃木市にも、〈銀座通り〉があったのですが、郊外に大型店が出て、先日は、アーケードの取り壊しが行われていました。ますます、地方都市でも、昭和が遠くなり、昭和を感じさせる建物などが老朽化してきています。ここは気取らない街で、気に入っています。川の流れの瀬音を聞きながら住まえるのは情緒があって、快適なのです。

(江戸期、明治期、昭和戦後期、現在の様子です)

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ブラジル移民

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 移民して来た外来者に、ブラジル人が言った言葉が記録されているようです。『ドイツ人は3人集まると教会を建てる!』、日本人は何を建てたのかと言いますと、「学校」だったそうです。信仰と教育、人となるために必要なことなのでしょう。ドイツ人の場合は、教会が、教育を担っていましたから、教育と信仰は一つであったわけです。

 「日本力行(りっこう)会」という団体があります。農家の次男や三男が生きていくために、注目される働きをしてきています。貧しいけれど、向学心のある子弟のための教育支援事業を行ってきているのです。学校紹介、学費の援助、またアルバイトの斡旋などもしていました。1897年(明治30年)年に、牧師・島貫兵太夫によって、東京神田に開設されています。

 この島貫兵太夫は、仙台藩の下級武士の子で、維新後は、農業に従事した父に育てられますが、貧しくて、小学校で学ぶことができないままでいました。島貫は一念発起、14歳の時に学び始めると優秀で、卒業時には首席でした。小学校の助教になり、訓導の資格も取得します。キリスト教に反対でしたが、聖書を学ぶ内に基督者となり、仙台神学校(東北学院大学)で学ぶのです。

 救世軍の伝道をし始めますが、貧しい人たちや苦学する学生たちへの思いが強くなり、そう言った思いから、貧民救済の働きを始めるのです。そして「苦学力行」という言葉から、「力行会」を建て上げるのです。その働きが発展的に、アメリカやカナダ、そしてキューバやブラジルやアルゼンチンなどへ、国内の貧しい若者たちや家族を海外移民させる働きもしてきました。

 ブラジル移民ですが、最初の移民船がブラジルの海の玄関、サントス港に、781名が笠戸丸で着いたのが、19086月でした。それ以前に、五人の方(通訳地世話をした人たちです)が前もって調査や政府との交渉にために渡航していて、移民のみなさんを迎えています。コーヒーの栽培での成功を約束されていましたが、開墾から始め、それは重労働で、まるで奴隷のようだったそうです。

 1950年代の終わりに、家内の兄が、高校を終えてすぐに、ブラジルに移民をしています。日本で約束されたことが、現地とは食い違っていて、随分と苦労をしています。同行の仲間の自死があって、埋葬のために泣きながら土を掘ったと聞きました。アルゼンチンに行きました帰りに、サンパウロに、義兄を訪ねた時に聞いたのです。農業移民でしたが、自分で事業を興して、家族を養い、子どもたちに教育を受けさせ、立派に働きを確立していました。

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 私の訪問時に、日本のリンゴを栽培して、大成功を収めた、義兄の親友とお会いしました。3人の子をつれて、離婚されたお母さんは移民に応募したそうです。辛苦の末、リンゴ栽培を始め、その貯蔵施設を作って、出庫調整をしておられ、美味しい「ふじ」を一箱届けてくださったのです。義弟ということで、街の大きなレストランで、大判振る舞いを私にためにしてくれました。サントス港に別荘を持っていて、次回訪問時にはお連れしたいと言ってくれました。

 移民の成功者は一部で、サンパウロのリベルダージに、日本人街がありましたが、一世のお年寄りが、地下鉄の駅の前のベンチや石垣に座って、日向ぼっこをしているのを見かけました。みなさん、深いシワを顔に刻んで、ご苦労をされてきて、お子さんたちを育て上げて、移民仲間と談笑しながら、老後を過ごしていたのが印象的でした。

 ブラジルで飲んだコーヒーは、とても濃くて、たっぷりな砂糖を加えて、チビチビと飲まれるので、American に馴染んできた自分には、違った飲み物のように感じられたのです。espresso でしょうか、苦くて甘い、移民の歴史のような味でした。美味しいコーヒーは、ほとんどが日本向けに輸出されるのだそうです。

 義姉に、青空 market に連れて行ったいただいた時に、一世のお婆さんにお会いしましたが、とても寂しそうだったのを覚えています。ポルトガル語を話す孫やひ孫と、日本語で会話ができないからでした。長い異国での苦労が、お顔に滲み出ていました。

 (移民船笠戸丸、最初の移民の集合写真、サントス港です)

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