秋田県

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「秋田音頭」は、次のような歌詞で歌われています。

ハイ キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー

コラ いずれこれより ご免こうむり
音頭の無駄をいう(アーソレソレ)
お耳障りも(お気に障りも)あろうけれども
さっさと出しかける

ハイ キタカサッサー
ヨイサッサ ヨイナー(以下略)

コラ 秋田名物 八森ハタハタ
男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)
能代春慶 桧山納豆
大館曲げわっぱ

コラ 秋田の国では 雨が降っても
唐傘などいらぬ(アーソレソレ)
手頃な蕗の葉 さらりとからげて
サッサと出て行がえ

コラ 秋田の女ご 何どしてきれ(綺麗)だと
聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)

小野小町の 生まれ在所を
お前はん知らねのげ

コラ 秋田川端 日幕れに通ったば
ピカピカ飛んで来た(アーソレソレ)
蛍と思って ギッシリ掴んだっきゃ
隣りのハゲ頭

 父は旧制の中学校を終えると、日本でただ一つ鉱山学を専攻できる、秋田鉱山専門学校(秋田鉱専)に進学しています。日本の鉱山開発を前進させるための人材育成を、ドイツの鉱山学から学ぼうとして、1910年に、秋田市に開校したのです。

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 けっきょく、父は、戦争終結後間も無く、自分の任地の山村から東京に出て、会社勤めを始めて、転身してしまいます。父の本箱に、鉱山関係の本があった記憶がありましたから、青年期に学んだことを忘れたくなかったのでしょうか。国策企業の責任者であったことを精算して、新規に生き始めたのでしょう。浅草橋、日本橋、新宿にあった会社で働き、私たち兄弟四人を育ててくれました。

 父が青年前期を過ごした街を訪ねたい、という思いがずっとあったのですが、果たされないまま今日に至っています。日本では、父の学んだこ秋田市、青年期を過ごした中国東北部の瀋陽市(旧・奉天)」の二都市に行きたかったのですが、在華中に果たせなかった願いを、果たして叶えることができるでしょうか。

 秋田では「ハタハタ」という魚と、米の粉で作られた「きりたんぽ」、「しょっつる」という調味料が有名ですが、私はいまだに食べたことがありません。秋田県は、日本海を挟んだ大陸との交流があったとされています。海を渡ってユーラシア大陸との間を行き来していた形跡があるようです。言ってみれば博多や長崎だけではなく、秋田にも、その海外との交流の基地があった可能性があったに違いありません。

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 また、秋田は考古学の宝庫なのだそうです。遺跡が多く点在していて、父の若き日々を追うのと共に、古代の浪漫を追うのも良さそうです。大伴家持(おおとものやかもち)の詠んだ和歌に、

すめろぎの 御代栄えんと あずまなる みちのくの山に くがね(黄金)花咲く

とあります。「あずまなるみちのくのやま」は、東国、陸奥国仙北郡だそうですから、秋田には、古代から金山があったことになります。朝鮮半島の百済(くだら)からやってきた山師(鉱山技師)たちが、金鉱石を探し歩いたことがあったそうです。だからでしょうか、秋田が鉱山学の専門学校の設置都市に選ばれたのでしょうか。父に聞いておけばよかったなと悔やまれます。

 そこに土崎という港町がありますから、北前船が航行していた港で、古代から大陸を結ぶ船が出入りしていたのでしょうか。華南に、泉州という港町があって、教え子が招いてくれて訪ねたことがありました。巨大な船の遺跡があって、鄭和zhèng héが、全長130mにもなる船の大船団を率いてアフリカまでの航行の間に寄港した港でした。土崎もそんな港のように思えてなりません。

 秋田、古代の浪漫が溢れているように感じてならないのです。十代の父が、学生生活を送った街には、コロナ禍が終息しましたら、訪ねてみたいと思うのです。

(秋田大学旧校舎、土崎港花火大会、大館曲げわっぱです)

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