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 「満庭芳」   蘇軾  

歸去來兮
吾歸何處
來往如梭
待閒看
秋風洛水清波
好在堂前細柳
應念我 莫剪柔柯
仍傳語 江南父老
時與麗漁蓑

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歸りなんいざ
吾何れの處にか歸らん
來往は梭の如し
待ちて閒看せん
秋風洛水の清波を
好在堂前の細柳
應に我を念ひて 柔柯を剪ること莫かれ
仍ち傳語せよ 江南の父老に
時に漁蓑を麗に與へよと

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さあ帰ろう といって帰るあてもない 人事は梭のようにめまぐるしく移り変わる 願わくはこのまま 秋風洛水の清波を眺めていたいものだ

この堂前の細柳を見たら 私のことを思い出して 若枝を切ったりはしないで欲しい そして江南の老人たちには ときには我が漁蓑を日にあててほしいと伝えてくれ

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 宋代の詩人、蘇東坡(蘇軾)が、秋に詠んだ一編の詩です。中国暦・元豐七年(1085年)に詠んでいるのですが、五十歳頃の作です。その時、日本では、白河天皇の統治の世で、奥州では藤原清衡が、藤原三代の世を治めていた時代です。同じ秋には、疱瘡が流行ったと記録が残されています。

 2021年の日本では、昨年来猛威を振るった新型コロナが、秋風が吹くようになって、収束しそうな気配がしてきていますが、どうなるかははっきりしません。さらに第六波を心配する専門家もいます。流行病とか疫病とかは、そう珍しくないのであって、インフルエンザだって、この冬にはどんな勢いを見せるか分かりません。

 宋代だって、今のような医療体制のない時代は、もっと不安や恐れがあったわけで、疫病の研究者も特効薬もワクチンも全くなかったわけです。宋代の記録文書に、次のように記されてあります。

 『疫病とは、気候の異変や様々な人的要因により、急速に発症し、伝染力が強く、危険でパンデミック的な性格を持つ病気の一種です。 宋代には、腸チフス、季節伝染病、赤痢、痘瘡、風邪、疥癬、流行性耳下腺炎、牛や馬の伝染病など、一般に伝染病と呼ばれるものが約220件発生しました。 宋代には、腸チフス、伝染病、疫病が伝染力の強い伝染病として認識され、政府主導の伝染病対策システムが徐々に確立されていきました。』

 人類は、常に疫病と戦いながら、歴史を刻んできたことになります。蘇軾は、『秋風洛水の清波を眺めていたいものだ!』と願っていましたから、その年は、疫病の脅威はなかったことになります。今、散歩の途中、喫茶店の隅のテーブルの上の iPad に向かっていますが、300円ほどのコーヒーが、秋風と共に美味しく感じられてなりません。

 人生の秋、実りの時節だと良いのですが、任された仕事を終えた今は、どうしても秋なのかも知れません。また故郷がどこなのか、思い巡らしていますが、あの村は生まれただけで記憶がありません。物心ついた頃は、沢違いの山村で、父の仕事の事務所兼作業場の近くの貯木場、かつては石英の貯石場の近くに住んでいました。兄たちを追いかけて、木通(あけび)刈りに行ったり、栗拾いも行ったのです。父の仕事の索道で、熊や猪が、山奥から運ばれてきていた記憶があります。きっと食べたのでしょう。

 蘇軾は、自分の故郷に残して置いた、「漁蓑(りょうみの)」多分釣りをする時に、雨を避けるための蓑(みの/藁で作られた雨合羽)のことでしょうか、それを陽干しして置いてくれるように、釣り仲間に願っていたのでしょう。また故郷に戻って、日柄釣り糸でも垂れる時のためだったのでしょう。釣りは若い時に誘われて、夜明け前に着いた滝壺にはまって以来していません。後ろめたくなく、釣りのできる年齢になったかも知れません。

 もしかすると、蘇軾ならずも、秋は、人生の陽干しの時なのかも知れませんね。若い頃に仕舞い込んでおいたもの、引き出しや倉庫や押入、そして記憶の中に残っている様々なものを、引き出して陽に当てて、ポンポンと叩いて、埃を払ったり、湿気を取る時なのでしょうか。

(中国語のサイトに「宋代のスターバックス」とありました)

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0120-061-338

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  0120-061-338 フリーダイヤル [おもい ささえる]

 [NPO法人 自殺対策支援センター「ライフリンク」]、これは、新型コロナ禍による自殺者の急増で、厚生労働省が立て上げた、電話による相談機関です。2020年度の自殺者が、コロナ禍が原因で、11年ぶりに急増したのを受け、24時間、200人の相談員体制を目指しているそうです。

 昨日の “ Reuters “ の記事を紹介します。

 「厚生労働省の2021年版自殺対策白書の概要が9月28日、判明した。新型コロナウイルス感染拡大が起きた20年の自殺の状況を過去5年平均(15~19年)と比較、分析した結果、増加が顕著だった女性の自殺の中で「被雇用者・勤め人」が381人増と大幅に増え、原因・動機では「勤務問題」が最も大きく増加したことが分かった。

 20年の自殺者数は2万1081人(前年比912人増)。男性は11年連続で減少したが、女性は2年ぶりに増加した。

 「勤務問題」の内訳について過去5年平均との比較で増加数が多かったのは「職場の人間関係」(39人増)だった。(「共同通信」9月28日午後9時記事)」

 ずいぶん時間が経ちましたが、水曜日の夜、「聖書研究会」していた時に、一人の若い女性が、教会に入って来られたのです。お聞きすると、教会の明かりが見えたので入ってきたそうです。この方は、自殺を考えていて、彷徨い歩いていて、そこにたどり着いたのだそうです。

 礼拝に見えるようになり、信仰を持たれ、バプテスマを受けて、教会のメンバーになられました。わが家で、数年、一緒に生活をしてから、愛知県のご両親の元に帰って行かれました。家内がよくお世話をしていていて、市内の他の教会の幼稚園でお手伝いを喜んでしていました。

 私たちの身の回りには、そう言った自殺したいと誘惑されていた方が、これまで何人かいました。今もまた、そう願う方が大勢いらっしゃるのです。

 この方と生活を共にした頃は、まだ子どもたちが小学生でした。お姉さんのように、子どもたちが慕っていました。帰郷されてから、長女は電車に乗って、一人でお会いしに行ったこともありました。その時の彼女の事情をうすすす気づいていたのでしょう、長男は、今、この「ライフリンク」の相談員をさせていただいています。 

 以前、次の記事を読んだことがありました。 

 『もし、目の前で見知らぬ人が自殺しようとしていたら・・・あなたは、どうしますか。自殺しようと線路に立ち入った男性を助けた、心優しい駅員がカナダにいました。自殺しようと線路に立ち入った男性に、駅員は・・・』

 カナダのメディア『TRONT SUN』は、このように報道しています。2017年4月26日の朝、カナダのトロント市営地下鉄のダンダス駅から、1本の緊急連絡が発信されました。

 「今すぐ、この駅に向かっている列車を止めてください」

 なんと、線路に1人の乗客が立ち入ってしまったのです。彼はまったく動こうとせず、列車が来るのを待っているようでした。きっとホームにいた人は、こう思ったことでしょう。「自殺しようとしているのでは」・・・と。

 線路にいる男性の姿を見てハッとした、駅員のアダードさん。彼は、男性に近寄るとこういいました。

 「今日、何か嫌なことがあった?」

 アダードさんの目に入ったのは、男性の腕についている『患者認識用リストバンド』。「もしかすると、彼は病院で何かあったのかもしれない」と思ったのです。

 「はい」

といった男性に、アダードさんがとった行動は・・・。ホームの端に腰を下ろし、男性を優しく抱きしめたのです。深呼吸をするように声をかけ、男性が落ち着いてきたのを見ると、アダートさんはこういいました。

 「『私は強い』はい、いってみて」

 アダードさんの言葉を聞き、震える声で

 「私は強い(I am strong.)」

と繰り返す男性。続いて、アダードさんはホームにいる他の乗客に

 「君たちも一緒にいってみて」

とうながします。

 「『私は、強い』!『私は、強い』!」

 上り線の乗客も、下り線の乗客も、男性を励ますかのように声を合わせます。先ほどまで凍り付いていたのが嘘のように、ホームは温かい空気で包まれました。男性の心を落ち着かせ、優しい言葉をかけたアダードさん。そして、男性に勇気を与えた乗客たち彼らの素晴らしい行動に、心から拍手を送ります。[文・構成/grape編集部]

 

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 『なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ54節)』

 それでいて、「負けず嫌い」だった矛盾の私は、頑張れないのに、負けたくなかったのです。父も母も、言わば「負け組」で、父は大将にも大臣にも、母は婦人会長にも市会議員にもならずじまいでした。

 社会的には偉くはなかったのですが、4人もの男の子を、まあまあに育て上げたのは素晴らしいことだったと感謝しています。「◯町の△▽」と名を馳せた四兄弟を、人生の落伍者にしないで、社会に通用する男、人にしてくれて、劣等意識にも苛まれずに生きてこれたのです。

 でも両親は、「負けず嫌い」でもありました。とくに「今市小町」と言われたと、母の親戚のおばさんに聞いたことがあるほど、松島詩子似の母は、お転婆だったそうです。カナダ人の宣教師と出会って、教会に行き、14で信仰を告白した信仰者でした。

 父と山陰の街で出会って結婚し、四人の子を父に産んだのです。母は、《父の腰から出た子たち》と誇らしく思いながら育ててくれたのです。自分は産みの母に育てられずに、養父母に育てられたからでしょうか、自分の産んだ子への思いは、極めて強烈なものがありました。自分が得られなかった分を補おうとしていたのでしょうか。

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 中学生に私がなった時のことです。兄と私の学校の父兄会に来る時には、「勝ち組」の同級生のお母さんに負けたくなかったそうで、父の景気の良い時に買ってもらった和服を、上手に着こなして行ったそうです。私は覚えていませんが、大きくなって母が独白していました。

 信仰者の母の、そんな一面が好きでした。その《対抗心》がいいのかも知れません。生まれは変えることができません。自分の境遇も事実を受け入れるだけです。「信仰の父」と言われたアブラハムは、天幕住まいで、異教徒の地に住むも、神の《選びの民の誇り》を持ち続けて生きた人でした。イエスをキリストと、14歳で出会った母も、《神の子》とされた《誇り》を持ち続けて生きていました。

 持っていないものを、強引に手段を選ばないで求めて、得ることはしませんでした。分に見合った生き方をしたのです。でも母の〈背伸び〉は、それほどのものだったのです。きっと母の信仰とは、「赦された罪人」としての自分を、その境遇とともに、しっかりと認めたものだったようです。何一つ良いもののない自分が、神の憐れみ、一方的な恵みによって、基督者とされた喜びと平安に生きたのです。

 みんなが学校に行くようになり、その留守の時間にパートの仕事に出て、私たちにお小遣いをくれました。みんなが出はからった後、電車に乗って、家族の必要と自分の欲しいものを、新宿の伊勢丹に、月一ほどで出かけて買って帰っていたのだそうです。後になって聞いた、母の〈小さな秘密〉だったのです。

 日曜日は、幼い日に導かれたカナダ人宣教師の教会へ行って、生涯、礼拝を厳しく守っていました。賛美するのが好きでしたし、聖書もよく読み、人のために祈り、献金をし、人にも信仰の証もしていました。そういった中で、〈小休止〉、〈小楽しみ〉の一時は、母の心の健康を保っていたのかも知れません。子どもの頃に宣教師や若い伝道師から受けた聖書の教え、大人になって宣教師の教会で養われた信仰は、健全でした。

 恩寵の神を「父なる神」として、自分自身が、子であることを知ったことが、母の人生の基盤、根幹だったのです。お腹を痛めて産んだ子が、みんな信仰を継承したことは、母の慰めだったのでしょう。まさに「アブラハムの娘」なるが故の祝福でした。

 子どもの頃、父の躾は、とくに要領の悪い次兄に厳しかったのです。廊下に正座させられ、両手を挙げる体罰を受けていたのです。章子に影が映るのですが、手を下ろすと叱られるわけです。見かねた母が代わって手を挙げていたのを覚えています。そんな父と母とを、最後まで世話をしてくれたのが、この次兄でした。

 父も、母の信仰を受け継ぎ、勝利者の凱旋の行列に加えられたのです。『幼い日、親父は俺を、街の教会に連れて行ったくれたよ!』と、懐かしそうに語ったことがあっただけではなく、入院中の病床で信仰を告白し、数日後に、真の勝者として、一生懸命に生きて亡くなりました。父も母も「凡(ぼん)」として一生を終えたのです。

(新宿三丁目の古写真、伯耆富士です)

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子ロバで

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 『私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。 (伝道者の書911節)』

 おおよそ何事も、みんなのしないものや事に関心があった、へそ曲がりの私が関心のあったのは、日本的な泳法でした。クロール泳法、平泳ぎ、バタフライ泳法でない泳ぎ方を見つけたかったからです。兄たちでもなく、誰だか覚えていませんが、横になって、スイスイと泳いでいた人を目撃したのです。

 忍者が、城を探るために、巡りに掘ってあった堀を渡るために、水音や水がなるべく動かない泳法がありました。それが「横泳ぎ」だったのです。それをしてみたくて川で泳ぐ時に、それを試してみたのです。「立ち泳ぎ」もやったでしょうか。

 江戸時代以前から、忍者ならずとも、武芸の一環として泳法があったのですから、平和な時代、子どもの頃に、横泳ぎをしていたのは、時代錯誤だったことになります。速さで人と競うのはなく、静かに水飛沫を上げないで、水をかいて泳ぐ泳ぎ方は、結構楽しかったのです。クロールで上手に泳げなかったからでもありました。

 競争社会の海に投げ出されて、小学校に上がるや否や、いやがおうでも級友と競争を強いられて、速さ、上手さ、好成績が期待されていて、息

着く暇さえありません。ゆっくり、のんびり、着実に楽しみながら生きてはいけない雰囲気が溢れてしまっています。とにかく人を意識しないで、自分の方法で生きたかったのかも知れません。

 『神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。(詩篇14710節)』

 同級生に、馬の調教師の子どもがいました。そして彼もまた、お父さんの後を継いで、調教師になって、中央競馬界で活躍していたようです。尻に鞭を当てて早く走らせる姿が嫌いで、その競馬が嫌いでした。中1の時には肩を組んだ、調教師の息子の級友とは仲良しになれませんでした。

 日本軍の南京司令官・松井石根が、南京陥落後に入城した折、名馬に乗っていました。その馬上の高さから威厳を誇示しながら、勝ち戦の行軍をする姿を撮影した写真が残されています。日本が、友としてではなく、占領者として、中国を威圧する高圧的態度でした。中には今村均大将のような、謙遜な方もおいででした。

 『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ99節)』

 ところがエルサレムに、イエスさまが入場した時に、栗毛の姿の美しい馬には乗られませんでした。ゼカリヤが預言したように、子ロバに乗って、ご自分の都に入られたのです。馬上から見下そうとされないで、人の背ほどのロバの背に乗られ、シュロの葉の敷かれた道を行かれたのです。

 神が、私たちに求めておられるには、thoroughbred の駿馬ではなく、鈍足のロバなのです。速さではなく、謙遜さであり、堅実さなのです。内蒙古の砂漠で、馬に乗ったことがありました。チラッと私を見た馬は、その背に乗った私を運ぼうとはしませんでした。お金をもらった馬主が、ピシッつと鞭を尻に当てると、嫌々歩き始めたのです。

 急がず、慌てずに生きてきて、なんとも言えず静かな時を、巴波川の瀬音を聞きながら、富士や筑波や男体、そして大平山を見上げながら、家内と二人で、今を生きています。

(「キリスト教クリップアート」からです)
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謙信平

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 ときどき、散歩で登る「大平山(標高341m)」、わが家が、標高43mほどですから、今朝は、8時過ぎに家を出て、家に帰り着いたのが1115分ですから、高低差300m3時間余りの散歩だったのです。休みながら、木の枝を杖にして、のんびり歩いて来ました。

 この山の登り口が4箇所ほど(登山道はもっとあるようです)あって、きょうは、西側の「少年自然の家」方面を登ってみました。カサカサと枯葉を踏むのですが、秋から冬の山道は、枯れ葉の匂いがして好きなのです。森林浴の匂いでしょうか。

 関東平野を北上して、上毛野国(かみつけのくに)、上野(こうずけのくに)」、今の群馬方面からの中山道から分かれた日光例幣使街道と、江戸の日本橋からの日光街道、奥州街道などから、北関東あたりの街道から眺められる最初の山の一つが、この「大平山」なのです。

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戦国の群雄割拠の時代、越後の上杉謙信と、小田原の北条氏康は、関東平定を競い対立していました。当時の大中寺住職虎溪和尚
(こけいおしょう)が仲介となって、15689月、謙信の叔父が住職だった、大平山側の大中寺で「越相同盟(越後と相模)」を結んでいます。

 和議の後に、上謙信は太平山に登って、そこから南の関東平野を見渡したそうです。越後では見られない、その広大さに驚きの声をあげたのです。それで南に広がる関東平野眺めた一件から、その大平山の一郭を、「謙信平」と呼んでいます。四百年後ほどの今朝、そこから関東平野を眺めたのですが、実に広大でした。

 上杉謙信が、38歳の時に立った山の頂上付近の平地に、今朝、平和の時代に生きる、76の私が立ったのですが、戦国の世の武将は、多くの部下を引き連れて、三国峠を越えて関東平野にやって来たわけです。戦国の世に、諸国に兵を動かしたのを思いますと、兵の宿や兵糧(食料や水)などを賄いつつの旅は、大変な難儀だったのだろうと、思いを馳せていました。

(「謙信平」から南の方の眺望、謙信ちなみの「上越市」の夜空)

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「登岳陽楼」 杜甫

昔聞洞庭水 今登岳陽楼
呉楚東南坼 乾坤日夜浮
親朋無一字 老病有孤舟
戎馬關山北 憑軒涕泗流

日本語訳

 かねて噂に聞いていた洞庭湖を訪れ、そのほとりの岳陽楼に登る。呉楚の東南の地方が二つに裂けたという洞庭湖には、宇宙のすべてが一日中浮かんでいるようだ。手紙をくれるような親類も友達もなく、老いて病持ちの私には持ち物といっても小舟が一双あるだけだ。関山の北ではまだ今も戦が続いているという。楼の手摺に寄りかかっていると、涙が流れてくる。

 世は戦乱が続いていました。老境に至った杜甫は、噂に聞いてきた、名勝の地、洞庭湖を訪ねたのです。現在の河南省鄭州市で生まれ、家柄はよかったそうで、六歳で詩を詠み始め、二十代の初めに「科挙」を受験しますが、不合格になっています。「詩聖」と言われながらも、不遇な一生だったようです。

 40代の終わりに、杜甫は、四川省成都に行き、そこに「草庵」を設けてます。私は、2007年に、天津の語学学校の遠足があって、この「草庵」を、家内と留学生仲間と一緒に訪ねたことがあります。これも旅に誘われる「漂泊の詩人」の芭蕉が、江戸本所六軒堀の流れの辺りに、「庵(いおり)」を設けていますが、そこは仮住まいだったのです。そこから、「奥の細道」へ出立しています。

 芭蕉にとって杜甫は、憧れの人だったのです。「古人も多く旅に死(し)せるあり」と記したように、杜甫が旅から旅の一生を送り、旅に死したように、芭蕉も、「よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊(の思ひやまず」、結局は、旅の途上、大阪の門人の家で没しています。

 中一で、高校で教える古文の教師の特別授業で、「奥の細道」や、杜甫の「春望」を学んだ私は、家出を考えました。父と母に養ってもらわなければまだ生きていけない子どもの私は、お腹が減ってしまい、一泊の家出で、『ごめんなさい!』と、父に言って「小漂泊」を終えて、家に帰ってしまったことがありました。

 きっと家内が元気だったら、「旅をすみかとし」た、杜甫や芭蕉のように旅から旅をしているかも知れません。47年も、衣食住の世話をしてくれた家内への闘病の助けは、夫としての責務であります。ただ、この「漂泊の思い」は、まだ心の内に仕舞い込まれているのです。折り畳み自転車を買って、電車に輪行して、決めた駅で下車し、自転車をセットして目的地を走り回り、最終電車に飛び乗って帰宅するような生活を夢見ているのです。が、家内は賛成してくれません。

 杜甫は、病んで、不遇な生涯を送るのですが、二十代の終わりに一緒になった奥方と子どもを連れ歩いた、家庭志向の人だったそうです。これは芭蕉が弟子の曽良を伴ったのとも、私が、家内に家の留守居を頼んで、古跡を訪ねたいとの願いとも違っていたのです。結局、湘江(湖南省の河)の舟の中で、還暦を目前にして亡くなります。その旅の途上の死を「客死(かくし)」と言うそうです。

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 当時の五十代は老いの年齢だったのでしょう。冒頭の詩は、老境の杜甫のものなので、「春望」を詠んだ時とは違って、老身で詠みました。つまされる思いで、同じく老いを迎えた私は読むのです。涙を流す杜甫を想像しながら、その孤独に苛まれる心境を考えています。

 杜甫は、「涙」でも「泪」でもなく、「涕」という漢字を、この詩の中に記したのです。しかも「泗」を付け加えています。「涕泗 ti4si4/ていし」とは、泣いて涙を流すのですが、激しく感情的に泣いたのでしょうか、鼻水も共に流れ出るように泣いたことになります。きっと、生きて来た日々を思いながら、辛い人生を思い返し、死を間近に感じて、悲しんで泣いたのかも知れません。

 それに引き換え、すでに後期高齢者の私は、『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人でありあ寄留者であることを告白していたのです(ヘブル1113節)』との聖書の言葉の通り、自分が寄留者であるとしっかり認め、「さらに優れた故郷」への期待を、自分のものにすることができたのです。死の向こうに、永遠の命が約束されていて、それをいただくことができるのです。そんな明日を思いながらの今であります。

(杜甫と現在の湘江です)

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基礎学習

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 「子曰」と書き始めの「論語」を学んだことがあります。武士の学校、熊本藩の「済済黌(こう)」、下野壬生藩の「学習館」、水戸藩の「弘道館」など、武士の子弟は藩が開いた学校で学んだのです。南部盛岡藩の学校の様子が、「壬生義士伝(浅田次郎著)」に出て来ます。南部訛りの師が、藩の子弟に語っている場面です。

 『南部の桜は石を割って咲き出す。おめえらも、同じように石を割った生きてけ!』、下級藩士に過ぎないが、剣術と学問に秀でた吉村貫一郎は、そう言って南部藩士の子弟を教えているのです。どう生きていくかを語っています。きっと、どこの藩黌でも、そういった学びがあったのでしょう。「文武教習所」という学問所があり、後には藩黌の名を「明義堂」、「作人館」と呼んで、盛岡藩の人材育成をしています。

 この南部藩の「作人館」から、後に第9代の内閣総理大臣の原敬、国語学者の金田一京助、国連事務次長の新渡戸稲造が出ています。有名無名の器が育ったのです。そこには漢文・国文・書道・数学・茶道・諸武芸などの教科が、教えられていたそうです。

 例えば、「漢文」は、師の読む「論語」を、真似て読むのです。『子曰(しのたまわく)』、そして筆で書写して、漢字を学び、自分で書写した書や家で代々使い続けた書を家で素読するのです。そう言った基礎学習があって、明治維新以降、欧米諸国に遅れじと、人材育成がなされ、多くの教育者が欧米諸国から雇われて、日本の近代化のために学校教育が行われていきます。

 例えば、新渡戸稲造は作人館で学んだのですが、維新後、東京で学んだ方が良いとのことで、英語学校で英語を学び、その学校での学びに飽き足りなかった彼は、13歳で、「東京英語学校」に入学しています。そこで、同じ南部出身の佐藤昌介(後に北海道帝国大学初代学長)と親交があり、佐藤を追って、札幌の「札幌農学校」に、15歳で入学するのです。

 教育論、教育実践論など格別にない時代、前近代的な教育を受けただけで、明治以降、英語を学び、農学を専攻して学んだのが、明治初期の学生でした。また、江戸期の士分以外の農工商の子どもたちは、主に寺子屋で、「読み」、「書き」、「算盤(そろばん)」の教育を受けていたのです。世界に比べられないほどの識字率の高い国で、そう言った子が、優位な国民となり、やがて、それが素地となって、学びが重ねられて、ある者たちは、世界的な人材となっていったことに驚かされるのです。

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 教育論が、さまざまに改変されてきていますが、「基礎学習」が、どれほど大切かを思い知らされるのです。漢字や言葉を暗記させられ、九九を覚え、自分の国の政治的、国際的、地理的な位置や歴史を、繰り返し学んだことが、人としての学びの基盤になっているのを、自分の体験からも納得させられます。父は週刊誌を家に持ち込みませんでした。その代わり、字源や広辞苑を買ってきて家に備えました。歴史の事実を伝えるために、写真集も買ってきてくれました。そして母は、幼い日に教会に連れ行き、青年期に聖書を買って手渡してくれたのです。《神のいますこと》を知らせてくれ、それは「宗教教育」でした。

 『家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。(箴言24章3~5節)』

 それで教師や牧師になれたのだろうと思います。意味のないような単純な基礎学習があって、その上に積み上げられて、一人の人となっていくのです。学びの基礎を据えていただいたことに、心から感謝しているのです。それで劣等感に苛まれずに、ここまで生きてこれたわけです。学びの単純さや、反復には意味がありそうです。

(盛岡市から岩手山、寺小屋風景です)

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十五夜

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東京都下に住む弟が、今朝、昨晩の撮影したい満月の写真を送信してくれました。これもまた幽玄、神秘的ですね。蘇軾ならずとも、明月には心が揺さぶられます。

中天に浮く巨大な星である月が、これも同じく中天に浮く地球の片隅で、暗闇を怖がる人に、生きていく慰めやほっと一息する一時を与えてくれているのです。創造主の傑作です。

二日早く、息子が持参した月餅を食べてしまいましたが、華南の街で、十五夜に招かれて、小さく切り分けたいく種類もの月餅をご馳走になりました。友人のパン屋さんが、三箱も四箱もの月餅の折詰をくださって、食べきれず冷凍して、ずいぶん長く食べました。生きているって素晴らしいことですね!

 

 

カラス

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幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。 1176節)』

 中学の時、「烏」と印刷してあった国語の教科書は、「鳥」と間違えて印刷してあると思って、ずっとそう思い続けて大人になりました。ところが、聖書をよく読んでみると、カラスの漢字は「鳥」の字から「」を除いた「烏」であることが、初めて分かったのです。すっかり間違えて覚えていたのが恥ずかしくなりました。

 だからでしょうか、カラスのうるさく甲高い鳴き声に煩わされていて、いつも文句を言っていたのです。華南の街では、一度も鳴き声を聞きませんでしたが、この街には、ことさらカラスが多いのです。黒くてうるさいから嫌いでした。そうしましたら、聖書に、時々、「烏」が登場していることを思い出したのです。

 『「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。1列王1735節)』

 イスラエルの預言者に、神が選ばれたエリヤがいました。主のことばに従って、王アハブに、「雨は3年の間降らない」と予言した後、主は、その約束通りに、烏が、エリヤを養ったのです。預言者は、食べ物に窮することがあっても、餓死はしないのでしょう。カラスが養うのだということを思い出したわけです。

 どうも、終わりの日には、〈666〉の番号を my number card  に入れていない買い物客は、食物が買えない日が来ることが、「ヨハネの黙示録」に記されてあるようです。そんな悪魔を礼拝しない基督者には、きっとカラスが食物を運んでくれると思いますので、今から、カラスたちに感謝をし、関係を友好にしようと決めた次第です。

 このエリヤは、寡婦に養われ、また、天使が用意した焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼによって養われてもいるのです。ここに、《不思議な養い》があります。それで聖書で、主なる神さまは、「恐れるな」と言われるです。

 あの大預言者エリヤでさえ、時の権勢者を恐れたのです。この預言者もまた人だったからです。終わりの日に、人である基督者も恐れることがあることでしょう。食べ物に窮するような時も来ることでしょう。そんな時に、カラスや寡婦や天使によって、主なる神は、真の基督者を養ってくださることでしょう。

 『烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。(ルカ1224節)』

 こんな話が、ウイキペディアにあります。「カラス語」があるのだそうです。それを研究している国立総合研究大学院大学(神奈川県葉山町)の塚原直樹助教によると次のようなカラス語があるのだそうです。『「カ~カ~カ~」 カラスが餌を見つけ、仲間を呼び寄せる時に鳴く声。カラス語では「こっちに食べ物があるよ」という意味。 「カッカッカッ」 鷹などの天敵が近づいてきたことを仲間に知らせたり、警戒する時に鳴く声。カラス語では「危険だよ」という意味。 「クア~クア~」 ねぐらに帰ろうとするカラスが発する鳴き声。「安全だよ」という意味。』とです。

 カラスは、仲間を大切にする習性があるのですね。眼下の巴波川に、早朝、たった一羽の白鷺が流れの中に立って、餌を探しているのです。橋の下の水草の間に餌がいるのでしょう。ときどき啄(ついば)んでいます。この白鷺は、仲間を呼ぶこともなく、独食なのです。 

 華南の町の挨拶言葉は、『おはよう!』でも “ good morning “ でもなく、『吃了没有chile mei you』でした。『メシは喰ったかい?』という意味です。きっと食べられない時が多かったのでしょう、互いが心配し合って、『喰っていなかったら、一緒に喰っていくかい!』と誘っていたのでしょうか。あそこでは、互いを気遣う雰囲気が生活の中に溢れていました。

(“ イラストAC “ のカラスです)

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