基礎学習

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 「子曰」と書き始めの「論語」を学んだことがあります。武士の学校、熊本藩の「済済黌(こう)」、下野壬生藩の「学習館」、水戸藩の「弘道館」など、武士の子弟は藩が開いた学校で学んだのです。南部盛岡藩の学校の様子が、「壬生義士伝(浅田次郎著)」に出て来ます。南部訛りの師が、藩の子弟に語っている場面です。

 『南部の桜は石を割って咲き出す。おめえらも、同じように石を割った生きてけ!』、下級藩士に過ぎないが、剣術と学問に秀でた吉村貫一郎は、そう言って南部藩士の子弟を教えているのです。どう生きていくかを語っています。きっと、どこの藩黌でも、そういった学びがあったのでしょう。「文武教習所」という学問所があり、後には藩黌の名を「明義堂」、「作人館」と呼んで、盛岡藩の人材育成をしています。

 この南部藩の「作人館」から、後に第9代の内閣総理大臣の原敬、国語学者の金田一京助、国連事務次長の新渡戸稲造が出ています。有名無名の器が育ったのです。そこには漢文・国文・書道・数学・茶道・諸武芸などの教科が、教えられていたそうです。

 例えば、「漢文」は、師の読む「論語」を、真似て読むのです。『子曰(しのたまわく)』、そして筆で書写して、漢字を学び、自分で書写した書や家で代々使い続けた書を家で素読するのです。そう言った基礎学習があって、明治維新以降、欧米諸国に遅れじと、人材育成がなされ、多くの教育者が欧米諸国から雇われて、日本の近代化のために学校教育が行われていきます。

 例えば、新渡戸稲造は作人館で学んだのですが、維新後、東京で学んだ方が良いとのことで、英語学校で英語を学び、その学校での学びに飽き足りなかった彼は、13歳で、「東京英語学校」に入学しています。そこで、同じ南部出身の佐藤昌介(後に北海道帝国大学初代学長)と親交があり、佐藤を追って、札幌の「札幌農学校」に、15歳で入学するのです。

 教育論、教育実践論など格別にない時代、前近代的な教育を受けただけで、明治以降、英語を学び、農学を専攻して学んだのが、明治初期の学生でした。また、江戸期の士分以外の農工商の子どもたちは、主に寺子屋で、「読み」、「書き」、「算盤(そろばん)」の教育を受けていたのです。世界に比べられないほどの識字率の高い国で、そう言った子が、優位な国民となり、やがて、それが素地となって、学びが重ねられて、ある者たちは、世界的な人材となっていったことに驚かされるのです。

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 教育論が、さまざまに改変されてきていますが、「基礎学習」が、どれほど大切かを思い知らされるのです。漢字や言葉を暗記させられ、九九を覚え、自分の国の政治的、国際的、地理的な位置や歴史を、繰り返し学んだことが、人としての学びの基盤になっているのを、自分の体験からも納得させられます。父は週刊誌を家に持ち込みませんでした。その代わり、字源や広辞苑を買ってきて家に備えました。歴史の事実を伝えるために、写真集も買ってきてくれました。そして母は、幼い日に教会に連れ行き、青年期に聖書を買って手渡してくれたのです。《神のいますこと》を知らせてくれ、それは「宗教教育」でした。

 『家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。(箴言24章3~5節)』

 それで教師や牧師になれたのだろうと思います。意味のないような単純な基礎学習があって、その上に積み上げられて、一人の人となっていくのです。学びの基礎を据えていただいたことに、心から感謝しているのです。それで劣等感に苛まれずに、ここまで生きてこれたわけです。学びの単純さや、反復には意味がありそうです。

(盛岡市から岩手山、寺小屋風景です)

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