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「登岳陽楼」 杜甫

昔聞洞庭水 今登岳陽楼
呉楚東南坼 乾坤日夜浮
親朋無一字 老病有孤舟
戎馬關山北 憑軒涕泗流

日本語訳

 かねて噂に聞いていた洞庭湖を訪れ、そのほとりの岳陽楼に登る。呉楚の東南の地方が二つに裂けたという洞庭湖には、宇宙のすべてが一日中浮かんでいるようだ。手紙をくれるような親類も友達もなく、老いて病持ちの私には持ち物といっても小舟が一双あるだけだ。関山の北ではまだ今も戦が続いているという。楼の手摺に寄りかかっていると、涙が流れてくる。

 世は戦乱が続いていました。老境に至った杜甫は、噂に聞いてきた、名勝の地、洞庭湖を訪ねたのです。現在の河南省鄭州市で生まれ、家柄はよかったそうで、六歳で詩を詠み始め、二十代の初めに「科挙」を受験しますが、不合格になっています。「詩聖」と言われながらも、不遇な一生だったようです。

 40代の終わりに、杜甫は、四川省成都に行き、そこに「草庵」を設けてます。私は、2007年に、天津の語学学校の遠足があって、この「草庵」を、家内と留学生仲間と一緒に訪ねたことがあります。これも旅に誘われる「漂泊の詩人」の芭蕉が、江戸本所六軒堀の流れの辺りに、「庵(いおり)」を設けていますが、そこは仮住まいだったのです。そこから、「奥の細道」へ出立しています。

 芭蕉にとって杜甫は、憧れの人だったのです。「古人も多く旅に死(し)せるあり」と記したように、杜甫が旅から旅の一生を送り、旅に死したように、芭蕉も、「よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊(の思ひやまず」、結局は、旅の途上、大阪の門人の家で没しています。

 中一で、高校で教える古文の教師の特別授業で、「奥の細道」や、杜甫の「春望」を学んだ私は、家出を考えました。父と母に養ってもらわなければまだ生きていけない子どもの私は、お腹が減ってしまい、一泊の家出で、『ごめんなさい!』と、父に言って「小漂泊」を終えて、家に帰ってしまったことがありました。

 きっと家内が元気だったら、「旅をすみかとし」た、杜甫や芭蕉のように旅から旅をしているかも知れません。47年も、衣食住の世話をしてくれた家内への闘病の助けは、夫としての責務であります。ただ、この「漂泊の思い」は、まだ心の内に仕舞い込まれているのです。折り畳み自転車を買って、電車に輪行して、決めた駅で下車し、自転車をセットして目的地を走り回り、最終電車に飛び乗って帰宅するような生活を夢見ているのです。が、家内は賛成してくれません。

 杜甫は、病んで、不遇な生涯を送るのですが、二十代の終わりに一緒になった奥方と子どもを連れ歩いた、家庭志向の人だったそうです。これは芭蕉が弟子の曽良を伴ったのとも、私が、家内に家の留守居を頼んで、古跡を訪ねたいとの願いとも違っていたのです。結局、湘江(湖南省の河)の舟の中で、還暦を目前にして亡くなります。その旅の途上の死を「客死(かくし)」と言うそうです。

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 当時の五十代は老いの年齢だったのでしょう。冒頭の詩は、老境の杜甫のものなので、「春望」を詠んだ時とは違って、老身で詠みました。つまされる思いで、同じく老いを迎えた私は読むのです。涙を流す杜甫を想像しながら、その孤独に苛まれる心境を考えています。

 杜甫は、「涙」でも「泪」でもなく、「涕」という漢字を、この詩の中に記したのです。しかも「泗」を付け加えています。「涕泗 ti4si4/ていし」とは、泣いて涙を流すのですが、激しく感情的に泣いたのでしょうか、鼻水も共に流れ出るように泣いたことになります。きっと、生きて来た日々を思いながら、辛い人生を思い返し、死を間近に感じて、悲しんで泣いたのかも知れません。

 それに引き換え、すでに後期高齢者の私は、『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人でありあ寄留者であることを告白していたのです(ヘブル1113節)』との聖書の言葉の通り、自分が寄留者であるとしっかり認め、「さらに優れた故郷」への期待を、自分のものにすることができたのです。死の向こうに、永遠の命が約束されていて、それをいただくことができるのです。そんな明日を思いながらの今であります。

(杜甫と現在の湘江です)

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