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 『なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ54節)』

 それでいて、「負けず嫌い」だった矛盾の私は、頑張れないのに、負けたくなかったのです。父も母も、言わば「負け組」で、父は大将にも大臣にも、母は婦人会長にも市会議員にもならずじまいでした。

 社会的には偉くはなかったのですが、4人もの男の子を、まあまあに育て上げたのは素晴らしいことだったと感謝しています。「◯町の△▽」と名を馳せた四兄弟を、人生の落伍者にしないで、社会に通用する男、人にしてくれて、劣等意識にも苛まれずに生きてこれたのです。

 でも両親は、「負けず嫌い」でもありました。とくに「今市小町」と言われたと、母の親戚のおばさんに聞いたことがあるほど、松島詩子似の母は、お転婆だったそうです。カナダ人の宣教師と出会って、教会に行き、14で信仰を告白した信仰者でした。

 父と山陰の街で出会って結婚し、四人の子を父に産んだのです。母は、《父の腰から出た子たち》と誇らしく思いながら育ててくれたのです。自分は産みの母に育てられずに、養父母に育てられたからでしょうか、自分の産んだ子への思いは、極めて強烈なものがありました。自分が得られなかった分を補おうとしていたのでしょうか。

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 中学生に私がなった時のことです。兄と私の学校の父兄会に来る時には、「勝ち組」の同級生のお母さんに負けたくなかったそうで、父の景気の良い時に買ってもらった和服を、上手に着こなして行ったそうです。私は覚えていませんが、大きくなって母が独白していました。

 信仰者の母の、そんな一面が好きでした。その《対抗心》がいいのかも知れません。生まれは変えることができません。自分の境遇も事実を受け入れるだけです。「信仰の父」と言われたアブラハムは、天幕住まいで、異教徒の地に住むも、神の《選びの民の誇り》を持ち続けて生きた人でした。イエスをキリストと、14歳で出会った母も、《神の子》とされた《誇り》を持ち続けて生きていました。

 持っていないものを、強引に手段を選ばないで求めて、得ることはしませんでした。分に見合った生き方をしたのです。でも母の〈背伸び〉は、それほどのものだったのです。きっと母の信仰とは、「赦された罪人」としての自分を、その境遇とともに、しっかりと認めたものだったようです。何一つ良いもののない自分が、神の憐れみ、一方的な恵みによって、基督者とされた喜びと平安に生きたのです。

 みんなが学校に行くようになり、その留守の時間にパートの仕事に出て、私たちにお小遣いをくれました。みんなが出はからった後、電車に乗って、家族の必要と自分の欲しいものを、新宿の伊勢丹に、月一ほどで出かけて買って帰っていたのだそうです。後になって聞いた、母の〈小さな秘密〉だったのです。

 日曜日は、幼い日に導かれたカナダ人宣教師の教会へ行って、生涯、礼拝を厳しく守っていました。賛美するのが好きでしたし、聖書もよく読み、人のために祈り、献金をし、人にも信仰の証もしていました。そういった中で、〈小休止〉、〈小楽しみ〉の一時は、母の心の健康を保っていたのかも知れません。子どもの頃に宣教師や若い伝道師から受けた聖書の教え、大人になって宣教師の教会で養われた信仰は、健全でした。

 恩寵の神を「父なる神」として、自分自身が、子であることを知ったことが、母の人生の基盤、根幹だったのです。お腹を痛めて産んだ子が、みんな信仰を継承したことは、母の慰めだったのでしょう。まさに「アブラハムの娘」なるが故の祝福でした。

 子どもの頃、父の躾は、とくに要領の悪い次兄に厳しかったのです。廊下に正座させられ、両手を挙げる体罰を受けていたのです。章子に影が映るのですが、手を下ろすと叱られるわけです。見かねた母が代わって手を挙げていたのを覚えています。そんな父と母とを、最後まで世話をしてくれたのが、この次兄でした。

 父も、母の信仰を受け継ぎ、勝利者の凱旋の行列に加えられたのです。『幼い日、親父は俺を、街の教会に連れて行ったくれたよ!』と、懐かしそうに語ったことがあっただけではなく、入院中の病床で信仰を告白し、数日後に、真の勝者として、一生懸命に生きて亡くなりました。父も母も「凡(ぼん)」として一生を終えたのです。

(新宿三丁目の古写真、伯耆富士です)

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