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ときどき、散歩で登る「大平山(標高341m)」、わが家が、標高43mほどですから、今朝は、8時過ぎに家を出て、家に帰り着いたのが11時15分ですから、高低差300mの3時間余りの散歩だったのです。休みながら、木の枝を杖にして、のんびり歩いて来ました。
この山の登り口が4箇所ほど(登山道はもっとあるようです)あって、きょうは、西側の「少年自然の家」方面を登ってみました。カサカサと枯葉を踏むのですが、秋から冬の山道は、枯れ葉の匂いがして好きなのです。森林浴の匂いでしょうか。
関東平野を北上して、上毛野国(かみつけのくに)、上野(こうずけのくに)」、今の群馬方面からの中山道から分かれた日光例幣使街道と、江戸の日本橋からの日光街道、奥州街道などから、北関東あたりの街道から眺められる最初の山の一つが、この「大平山」なのです。
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戦国の群雄割拠の時代、越後の上杉謙信と、小田原の北条氏康は、関東平定を競い対立していました。当時の大中寺住職虎溪和尚(こけいおしょう)が仲介となって、1568年9月、謙信の叔父が住職だった、大平山側の大中寺で「越相同盟(越後と相模)」を結んでいます。
和議の後に、上謙信は太平山に登って、そこから南の関東平野を見渡したそうです。越後では見られない、その広大さに驚きの声をあげたのです。それで南に広がる関東平野眺めた一件から、その大平山の一郭を、「謙信平」と呼んでいます。四百年後ほどの今朝、そこから関東平野を眺めたのですが、実に広大でした。
上杉謙信が、38歳の時に立った山の頂上付近の平地に、今朝、平和の時代に生きる、76の私が立ったのですが、戦国の世の武将は、多くの部下を引き連れて、三国峠を越えて関東平野にやって来たわけです。戦国の世に、諸国に兵を動かしたのを思いますと、兵の宿や兵糧(食料や水)などを賄いつつの旅は、大変な難儀だったのだろうと、思いを馳せていました。
(「謙信平」から南の方の眺望、謙信ちなみの「上越市」の夜空)
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