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『私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。 (伝道者の書9章11節)』
おおよそ何事も、みんなのしないものや事に関心があった、へそ曲がりの私が関心のあったのは、日本的な泳法でした。クロール泳法、平泳ぎ、バタフライ泳法でない泳ぎ方を見つけたかったからです。兄たちでもなく、誰だか覚えていませんが、横になって、スイスイと泳いでいた人を目撃したのです。
忍者が、城を探るために、巡りに掘ってあった堀を渡るために、水音や水がなるべく動かない泳法がありました。それが「横泳ぎ」だったのです。それをしてみたくて川で泳ぐ時に、それを試してみたのです。「立ち泳ぎ」もやったでしょうか。
江戸時代以前から、忍者ならずとも、武芸の一環として泳法があったのですから、平和な時代、子どもの頃に、横泳ぎをしていたのは、時代錯誤だったことになります。速さで人と競うのはなく、静かに水飛沫を上げないで、水をかいて泳ぐ泳ぎ方は、結構楽しかったのです。クロールで上手に泳げなかったからでもありました。
競争社会の海に投げ出されて、小学校に上がるや否や、いやがおうでも級友と競争を強いられて、速さ、上手さ、好成績が期待されていて、息
着く暇さえありません。ゆっくり、のんびり、着実に楽しみながら生きてはいけない雰囲気が溢れてしまっています。とにかく人を意識しないで、自分の方法で生きたかったのかも知れません。
『神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。(詩篇147篇10節)』
同級生に、馬の調教師の子どもがいました。そして彼もまた、お父さんの後を継いで、調教師になって、中央競馬界で活躍していたようです。尻に鞭を当てて早く走らせる姿が嫌いで、その競馬が嫌いでした。中1の時には肩を組んだ、調教師の息子の級友とは仲良しになれませんでした。
日本軍の南京司令官・松井石根が、南京陥落後に入城した折、名馬に乗っていました。その馬上の高さから威厳を誇示しながら、勝ち戦の行軍をする姿を撮影した写真が残されています。日本が、友としてではなく、占領者として、中国を威圧する高圧的態度でした。中には今村均大将のような、謙遜な方もおいででした。
『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ9章9節)』
ところがエルサレムに、イエスさまが入場した時に、栗毛の姿の美しい馬には乗られませんでした。ゼカリヤが預言したように、子ロバに乗って、ご自分の都に入られたのです。馬上から見下そうとされないで、人の背ほどのロバの背に乗られ、シュロの葉の敷かれた道を行かれたのです。
神が、私たちに求めておられるには、thoroughbred の駿馬ではなく、鈍足のロバなのです。速さではなく、謙遜さであり、堅実さなのです。内蒙古の砂漠で、馬に乗ったことがありました。チラッと私を見た馬は、その背に乗った私を運ぼうとはしませんでした。お金をもらった馬主が、ピシッつと鞭を尻に当てると、嫌々歩き始めたのです。
急がず、慌てずに生きてきて、なんとも言えず静かな時を、巴波川の瀬音を聞きながら、富士や筑波や男体、そして大平山を見上げながら、家内と二人で、今を生きています。
(「キリスト教クリップアート」からです)
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