未熟さ

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 まだ青いミニトマト、しかも最後に、枝に繋がる実りです。まだ自分が青かった、未熟な頃のことを思い出して、苦笑いと、恥入っている私です。陽の光を受けて、実が赤くなっていくのですが、降り注がれた恵みが溢れて、ひとりの人となります。実際、成熟したのだろうかと、この歳になっていぶかるのは変でしょうか。

 聖書を読み始めて、自責の念に駆られ、恥ずかしさでいっぱいだった私が、罪を赦され、義を愛し、隣人を愛し、誠実に生きるように促してくれた聖句があります。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)」

 パウロが、エペソの教会の人たちに、『人は行いで救われるのではなく、ただ神の恵みのよるのであってイエスを信じる信仰によるのです!』と語ったのです。なかなか行いを正せない私に、「行い」は、後からついてくるのだ、ということが信じられて、その思いから解放されたのです。

 ですから悟ったのでも、修行したのでもありません。根拠は、幼い私に手を引いて、神の臨済する教会に教会に連れて行ってくれた母の《主への熱心》と《子への愛》によります。母は、四人の子を引き連れて、日曜日になると教会に行っていたのです。母が、自分の産んだ子にできる最善が、食事の用意や洗濯や掃除だけではなく、《礼拝出席》でした。

 「罪を赦してくださる神」と出会うようにしてくれたのです。やがて実際に神と人格的に出会ったのです。「三で一つの神」が、十字架で、私の生まれながらの、自ら犯した罪の身代わりに死んでくださったということが、突然理解されたのです。「聖霊なる神」が、この私に降り注がれて、突然、異言が口から突いて出ました。

 アフリカへ行く途中、羽田空港に降り立った、ニューヨークの神学校の教師が、私の母教会でもった夜の特別集会で、この方が、私の頭に手を置いた時でした。経験した者でなければ感じることにできない出来事でした。瞬間、十字架の贖罪が、自分のためだと示され、罪深さを悔い改める涙が溢れ出たのです。理性がありました、何かに憑かれたような体験ではなかったからです。

 『さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。(使徒81417節)』

 聖書に記された、それと同じ経験でした。思ってもみなかった土地での生活が始まって、そろそろ3年になろうとしています。静かな単純な日々の中で、思い返すことが多くなってきています。歳のせいから、季節のせいか、コロナのせいか、今までになかった日を送る中でのよい時です。気温が低くなり、かなかな蝉が鳴き始めています。さて、このミニトマトは食べられるでしょうか。食べられたら、家内と半分づつにしようかな、の秋です。

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帰巣

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「故郷の空」、大和田建樹の作詞、スコットランド民謡の曲、奥好義の編曲で、1889年(明治21年)に発表された明治唱歌です。

夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもえば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおわす

すみゆく水に 秋萩たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺
ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ

 秋風が吹いて、果物屋の店頭に、栗や無花果や梨が出回って来ると、郷愁が心をなでて吹いていきます。山また山の中に生まれ、小川の瀬に家があり、河鹿が鳴き、狼が吠え、三日月が中天にある故郷が仕切りに懐かしく思い出されてまいります。豊島与志雄の「故郷」に、次のような文があります。

 「石狩の鮭と釧路の鮭とは、品質がまるで異っている。魚族が異っているからである。

 鮭の人工孵化を行い得られるのは、鮭が自分の生れ故郷を忘れないからである。大海に放たれても、産卵期には必ず、自分が幼魚の頃甞て放たれた場所へ、殆んど洩れなく戻ってくる。石狩川から放たれた鮭は、決して釧路川へ上ることなく、必ず石狩川へ上ってくる。釧路川から放たれた鮭も、また同様である。

 何故に然るか。それを私は説明し得ない。ただ、事実はそうだというまでである。

 ユダヤ民族研究者の云う処に依れば、彼等の理想が如何なるものであろうとも、なおよく云えば、彼等がたとえ世界的国家の建設を夢想しようとも、その中心地は必ずユダヤの故地だそうである。何故? の問題ではない。そうでなければならないのである。」

 石狩川の鮭は、自分の故郷を知っていて、どこの海で泳ごうが、決まって産卵の時期には、生まれ故郷の石狩川に帰ってくるのです。〈何故?〉なのか、それは〈帰巣本能〉と言う以外にありません。どこで生まれた鮭でも、自分の故郷に戻って行きます。

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 ユダヤ人も、とくに〈失われた十部族〉は、世界に離散、散逸した流浪の民なのですが、この民族には、パレスチナとかカナンと言われる地に、帰還しようとする願いが、生まれながらにあるのか、また、ある時に至って生じてくるのです。民族の血がそうさせるのでしょうか。どんなに事業に成功しても、何代も前から住み着いた異国の地を、自分たちの故郷だとは思わないのです。

 彼らの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに、エホバなる神が与えると約束した地への憧れがあり続けるのです。あの〈Zionism/シオニズム〉の思いを民族として持ち続けて、やがて帰郷を成し遂げるのです。

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 中国の河南省に「开封kaifeng/開封」と言う街があります。明代(1368-1644年)には、ユダヤ人は皇帝から 、艾、石、高、金、李、張、趙(ユダヤ人の氏族の姓 Ezra, Shimon, Cohen, Gilbert, Levy, Joshua, Jonathan)を与えられ、それぞれ、中華の民の中で、名乗ったのです(ウイキペディアによる)。今では、ほとんどユダヤ人として生活している痕跡がないのだそうですが、そこにもユダヤ人はいて、帰還の思いの湧き上がる日があるのではいでしょうか。

 『しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル1116節)』

 聖書に、「さらにすぐれた故郷」が、天にあると記されています。私の生まれ故郷は、ここから日帰りできる距離にありますが、そこは過疎の村で、そこには住んだ形跡も無くなってしまっていることでしょう。産んでくれれた両親も、すでに帰天しています。兄たちと弟は健在で、コロナ終息を期して、一緒に旅行をしようとみんなが願っているのです。

 私には、帰って行く故郷があるのです。そう約束してくださった神が、約束してくださった帰るべき世界が用意されているからです。その望みの中にいて、北関東の地に住み着いております。

(鮭と“教会クリップアート“の空を見上げて星を数えるアブラハムです)

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