青森

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 焦土と化した街々の瓦礫の中から、日本の社会を、明るくしてくれた歌が流れていきました。1945年10月頃から、並木路子の歌う「リンゴの唄」です。その歌声は、打ちひしがれた日本人の心を慰め激励してやみませんでした。どこにいてもラジオから流れてきていたのです。作詞がサトウハチロー、作曲が万城目正でした。

 1 赤いリンゴに唇よせて
だまってみている青い空
リンゴはなんにもいわないけれど
リンゴの気持はよくわかる
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

2 あの娘(こ)よい子だ 気立てのよい娘
リンゴに良く似た可愛い娘
どなたがいったか うれしいうわさ
かるいクシャミもとんで出る
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

3 朝のあいさつ 夕べの別れ
いとしいリンゴにささやけば
言葉は出さずに小くびをまげて
あすも又ねと夢見顔
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

4 歌いましょうか リンゴの歌を
二人で歌えばなおたのし
みんなで歌えばなおなおうれし
リンゴの気持を伝えよか
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

 このリンゴの故郷、青森は、「みちのく」と呼ばれ、漢字表記は「陸奥(みちのおく、むつ)」でした。まさに奥羽街道、東山道の奥、果ての地でした。とくに戦後の高度成長期の首都圏の開発の働き手を、多く送り出した地でもあります。地方が見直された今では、寒さ対策もされ、住み良い県になっています。

 弟の高校時代の担任で、青森県弘前市出身の先生がいて、彼は気に入られた生徒で、大学を卒業した後に、この教師の推薦で、池袋の高校の教師になりました。その後、母校の教師にと招かれて、定年退職のしたものの75歳までの延長で、母校に関わってきています。来春3月までだそうです。

 その弘前ですが、りんご栽培で有名な街なのです。青森では1875年に、三本の苗木から始まって、日本一のりんご生産を誇る村となりました。弘前市の私立東奥義塾が招いた米国人宣教師ジョン・イング師が、翌年の12月25日のキリスト降誕節に、当時の教え子や信者さんたちに、りんごを分け与えたことが、西洋りんごが、青森県に紹介された最初と言われています。

 当時の東奥義塾塾長の菊池九郎は、その種を、自宅の庭に植えて、後年、別の台木(だいぎ)に 穂木(ほぎ)を接木(つぎき)したのが、青森県、弘前市のりんご発祥と言われているそうです。

 リンゴ栽培の近年の課題ですが、人口減少や後継者がいなくて、今後の経営が危ぶまれているのだそうで、NHKの文化講演会の収録を聞いたことがありました。この問題の解決にために、弘前大学で研究がされていて、その報告書の最後に、次にようにありました。

 『弘前市では、2016 年度から今後 10 年間にわたって取り組む「りんご産業イノベーシ ョン戦略」を策定している。この戦略は、リンゴ産業が今までにない変化への対応を求 められていることから策定された。リンゴ産業においては、既に高齢化や担い手不足と いった状況が生じている。さらに、労働力不足、栽培面積の減少、生産技術習得までの 時間と労力、 気象災害リスク、複雑多様な流通形態、加工産業の脆弱性、関係法令によ る規制など、 さまざまな課題に直面しており、このまま人口減少が進んだ場合、遠くな い将来「りんごづくり」の存続自体が危ぶまれる。戦略の中には、解決すべき課題とし て、加工分野や生産分野での省力化も上がっている。このように、農業をしやすくするための技術や仕組みを考えていくことは、若い世代 が就農しやすい環境づくりに有効なのではないだろうか。若い世代が就農しやすい環境 ができ上がることで、現役の農家にとっても働きやすい環境が生まれ、相馬地区の農業 の維持・発展に繋がると考える。』

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 私は、青森は素通りしただけで、訪ねたことがありません。教会堂を建てていた時に、基礎づくりを、重機持ち込みで助けてくれた方の出身が、鯵ヶ沢だと、津軽訛りで話してくれました。どこかに引っ越されて、お別れしたきりですが、彼の《一杯の水》には感謝が尽きません。

 もう一つ、横浜や熊本や松江や札幌にあったような「弘前バンド(” band “ 集団とか一団を意味しています)」があった地です。宣教師たちの周りに、青年たちが集められ、キリスト教信仰が活発だったのです。弘前りんごのジョン・イング師が、その中心的な器でした。その一人の中田カツ子は、弘前藩藩士の子で、その働きの中で基督者となります。ホーリネス運動の伝道者の中田重治も、この伝道によって基督者とされ、カツ子は彼の妻となっています。孫に足利生まれで、静岡草深教会で牧会をされた辻宣道がいます。

 明治維新があって間もなく、宣教師によって語られた福音が、若者たちに受け入れられ、多くが伝道者や基督者の教師や事業家となっていきました。都会ではなく、地方の村の若者たちの人生を、宣教師たちの語る福音によって変えられていった動きだったのです。青森県も例外ではありませんでした。有為な人材をお切り出した県であります。

(“Japanese Wikipedia.”による、リンゴ園、青森港から八甲田山を望む)

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