月空星空

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 昨日の夕方7時頃の南の夕空に、月と星が見えました。この写真には映っていない、もう一つの星が月の右に、微かに見えたのです。iPad の撮影ではとらえられませんせした。その二つの星のどちらかが「土星」なのだそうです。天体望遠鏡があったら観たかったと思うこと仕切りでした。秋の夜空は幽玄で、趣があります。多分観る気持ちが、そう言った気分にされるからでしょうか。

 南宋の蘇軾は、「赤壁賦」を詠んだのですが、性格が豪放であったそうで、たびたび人生の危機、政治的な憂き目に直面するのですが、楽天家でしたので、くよくよしないで、夜空を見上げて月や星を、鋭い感性で詠み上げた詩人でした。

 『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。(詩篇836節)』

 夜空を見上げると、邪心が洗われるような思いにされ、創造の世界に引き込まれていきます。創造の神は、無限の星の一つ一つに、名をつけ、その名を呼ばれるお方です。「ウエストミンスター小教理問答」に、『神とは、どんな方ですか?』の答えに、『神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。』とあります。

神さまは、まさに《無限》、《永遠》、《不変》です。

※ 写真を Click すると、左上に星が映り込んでいます!

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コスモス

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 散歩道の脇に池があります。先週も、総合運動公園への道を、少し course に変化をもたせて、警察署の脇にある池で、一人の釣り人が竿を垂れて、水面を眺めていました。ああやって魚がかかるのを待つのも、老いの生き方の一つなのかと思うのですが、一所に座り込んで、半日を過ごすよりは、川辺や庭先に咲く、季節の花を眺めながら、歩く方が良さそうです。

 3週間ほど前からは、コスモスが目立って、どこにも咲いています。もうずっと前のことですが、子どもたちが帰郷した時に、〈コスモス街道で満開!〉というnews を聞いていたので、ちょっと距離があったのですが、みんなを誘って、その街道に出かけたたことがありました。

 秋の信州は、生まれ故郷に似て好きで、時々出かけたのです。その日、「コスモス街道」に着きましたら、三つほどの畑に、コスモスが咲いていました。延々と街道沿いに咲き誇っているように期待したのですが、一郭に植えられてあっただけで、あっさりしていました。そこにテントが張られて、私たちのように、コスモス目当てに来た観光客に、食べ物が提供されたていたのです。

 コスモスへの期待は裏切られたのですが、時あたかも《食欲の秋》でもありましたし、朝食もそこそこ食べただけでしたから、その地の農家のみなさんの炊き出しで、みんなでお昼をいただくことができたのです。子どもの頃に通学路の脇に咲いていたコスモスと同じ、淡いピンクの花は歓迎してくれていました。

 この花は、赤道間近の中米が原産で、スペインに持ち帰られてから、世界中に種子が広く行き渡り、日本には、明治12年(1890年)にやってきたのだそうです。ギリシャ語の κόσμος (調和、秩序、宇宙といった意味です)を、「秋桜」と書いて、コスモスと読ますのですが、こういった当て字を、当てた方は、感性が豊かだったのでしょう。

 洪水にあう前に住んでいた家の庭に、種を蒔いて、コスモスの花が咲き始めましたら、それを見た小朋友のお嬢さんが、家に来るたびに、その花を欲しがったのです。家内は刈って、柔らかな紙に包んであげていました。さあ花を愛でる心が、大きくなあーれ!

(散歩道に咲いていた路傍のコスモスです)

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