ブラジル移民

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 移民して来た外来者に、ブラジル人が言った言葉が記録されているようです。『ドイツ人は3人集まると教会を建てる!』、日本人は何を建てたのかと言いますと、「学校」だったそうです。信仰と教育、人となるために必要なことなのでしょう。ドイツ人の場合は、教会が、教育を担っていましたから、教育と信仰は一つであったわけです。

 「日本力行(りっこう)会」という団体があります。農家の次男や三男が生きていくために、注目される働きをしてきています。貧しいけれど、向学心のある子弟のための教育支援事業を行ってきているのです。学校紹介、学費の援助、またアルバイトの斡旋などもしていました。1897年(明治30年)年に、牧師・島貫兵太夫によって、東京神田に開設されています。

 この島貫兵太夫は、仙台藩の下級武士の子で、維新後は、農業に従事した父に育てられますが、貧しくて、小学校で学ぶことができないままでいました。島貫は一念発起、14歳の時に学び始めると優秀で、卒業時には首席でした。小学校の助教になり、訓導の資格も取得します。キリスト教に反対でしたが、聖書を学ぶ内に基督者となり、仙台神学校(東北学院大学)で学ぶのです。

 救世軍の伝道をし始めますが、貧しい人たちや苦学する学生たちへの思いが強くなり、そう言った思いから、貧民救済の働きを始めるのです。そして「苦学力行」という言葉から、「力行会」を建て上げるのです。その働きが発展的に、アメリカやカナダ、そしてキューバやブラジルやアルゼンチンなどへ、国内の貧しい若者たちや家族を海外移民させる働きもしてきました。

 ブラジル移民ですが、最初の移民船がブラジルの海の玄関、サントス港に、781名が笠戸丸で着いたのが、19086月でした。それ以前に、五人の方(通訳地世話をした人たちです)が前もって調査や政府との交渉にために渡航していて、移民のみなさんを迎えています。コーヒーの栽培での成功を約束されていましたが、開墾から始め、それは重労働で、まるで奴隷のようだったそうです。

 1950年代の終わりに、家内の兄が、高校を終えてすぐに、ブラジルに移民をしています。日本で約束されたことが、現地とは食い違っていて、随分と苦労をしています。同行の仲間の自死があって、埋葬のために泣きながら土を掘ったと聞きました。アルゼンチンに行きました帰りに、サンパウロに、義兄を訪ねた時に聞いたのです。農業移民でしたが、自分で事業を興して、家族を養い、子どもたちに教育を受けさせ、立派に働きを確立していました。

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 私の訪問時に、日本のリンゴを栽培して、大成功を収めた、義兄の親友とお会いしました。3人の子をつれて、離婚されたお母さんは移民に応募したそうです。辛苦の末、リンゴ栽培を始め、その貯蔵施設を作って、出庫調整をしておられ、美味しい「ふじ」を一箱届けてくださったのです。義弟ということで、街の大きなレストランで、大判振る舞いを私にためにしてくれました。サントス港に別荘を持っていて、次回訪問時にはお連れしたいと言ってくれました。

 移民の成功者は一部で、サンパウロのリベルダージに、日本人街がありましたが、一世のお年寄りが、地下鉄の駅の前のベンチや石垣に座って、日向ぼっこをしているのを見かけました。みなさん、深いシワを顔に刻んで、ご苦労をされてきて、お子さんたちを育て上げて、移民仲間と談笑しながら、老後を過ごしていたのが印象的でした。

 ブラジルで飲んだコーヒーは、とても濃くて、たっぷりな砂糖を加えて、チビチビと飲まれるので、American に馴染んできた自分には、違った飲み物のように感じられたのです。espresso でしょうか、苦くて甘い、移民の歴史のような味でした。美味しいコーヒーは、ほとんどが日本向けに輸出されるのだそうです。

 義姉に、青空 market に連れて行ったいただいた時に、一世のお婆さんにお会いしましたが、とても寂しそうだったのを覚えています。ポルトガル語を話す孫やひ孫と、日本語で会話ができないからでした。長い異国での苦労が、お顔に滲み出ていました。

 (移民船笠戸丸、最初の移民の集合写真、サントス港です)

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