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私たちの家族が、東京に出て来て、二度目に住み始めた家の向かい側が丘陵になっていました。そこは一面桑畑だったのです。生まれ故郷の渓谷の中には田んぼがありましたが、桑畑などなかったので、珍しがって、小刀で桑の木を切って、皮を向いて、チャンバラの刀にしていました。
そんな遊びのための桑の木ではなく、後に、蚕(かいこ)の餌となる葉っぱを育ててる木だったのを知ったのです。ですから、学んだ小学校から、そう遠くない所に、「桑園(そうえん)」と呼ばれた地域があって、そこに、旧農林省の「蚕糸試験場」があり、「蚕室」がありました。まだ養蚕業が盛んだった頃のことです。
友だちに、『さなぎ(蛹)を拾いに行こう!』と誘われて、規格外で使われない虫が、窓の外に捨てられていたのです。モゾモゾと動くのを、気持ち悪かったのですが、素手で拾ったのです。家に持ち帰って、紙の箱に入れて、丘の上に行って桑の葉を摘んで、さなぎに与えると、パチパチと音を立てて、食べていました。中には繭(まゆ)になったのもあったのです。その飼育の面白さを経験させてもらいました
日本の近代化のために、この「養蚕」、これによって産出する「絹糸」が、ヨーロッパ諸国に輸出され、外貨を稼ぎ、それを資金に工業国化が進み、もう一面では軍国主義化していく基幹産業となりました。そのために、群馬県に誕生した「富岡製糸場」は、現在では世界遺産にも登録されるほどの役割を担ってきたのです。
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今夏、「水上」に出かけましたが、その県南にあって、長野県寄りにある「富岡市」が、日本近代化の金字塔とも言える製糸業の牽引工場のあった街なのです。「あゝ野麦峠」で、信州岡谷の製糸工場で働く女工さんたちが、岐阜などから、峠を超えてやって来た話は読んだことがありましたが、政府主導の製糸業の牽引は、まず群馬県だったのです。
ここは、律令制がしかれてから、「上毛野国(かみつけぬのくに)」、「上野国(こうずけのくに)」、「上州」と呼ばれて来ました。『その徳性を涵養し、その品行を高尚ならしめ、その精神を正大ならしめんことを勉め(る)』と言った新島襄ゆかりの県です。青年期に、その伝記を読んで啓発された新島襄は、上州安中藩士の子で、江戸は神田で生まれています。京都に「同志社」を起こして、青年教育にあたった人でした。高二の頃、「同志社大学」に一緒に行こうとして、友だちと決めたのですが、二人とも行かなかったのです。〈上毛カルタ〉の「へ」に『平和の使徒(つかい) 新島襄』とあります。
もう一人は、『もし全世界を手中に収めようともそのために自分の魂を失ってしまえば一体何の意味があろう。人生の目的は金銭を得ることではない。品性を完成することである。』と言い残した、内村鑑三で、この方は、高崎藩士の子、江戸の小石川の武家長屋で生まれています。この方の薫陶を受けた人は、数多くおいでです。上州は、『雷とからっ風、義理人情!』とか、〈かかあ天下〉でも有名ですが、貧しい山岳部の農家の次男、三男の耕す土地がなく、博徒になる人も多かったそうです、でも立派な人物を輩出している県なのでありかます。〈上毛カルタ〉の〈こ〉に『心の灯台 内村鑑三』とあります。
この群馬県は、わが栃木県に似て、広大な関東平野の背後には山岳が聳えていて、登山家にとって有名な谷川岳(三国山)、あの ski boom の時期には、首都圏に近いということで〈ski のMecca〉でもありました。溢れるほどの人だった上毛高原駅は、今夏利用した時に、広すぎた駅で閑散としていたので、ときの移ろいを覚えたのです。
人口200万弱で、栃木県の宇都宮とは、JR両毛線で高崎と結ばれています。また、この高崎は、旧国有鉄道で、八王子まで八高線、そこから横浜線で横浜につながっていて、生糸の輸送が行われていたのです。人の移動だけではなく、産品輸送のための鉄道は、日本中に広がって行ったわけです。
東京に住み始めた小学生の頃、話しことばの最後に、「べえ」がついてて、それが面白くて口真似をしていました。この言葉は、神奈川県の一部、群馬県、栃木県でも使われています。知人の家具店の元店長さんが、栃木弁の方で、「べえ」を話しておられて、つられて使いそうになってしまいました。方言の連鎖というのは、人の交流があったということでしょうか。
農業県であることは、一大消費地の東京圏の台所を賄ってきたことは間違いないのですが、京浜の工業地帯の工場疎開で、たくさんの企業が工場を開拓して生産に励んでいますから、工業県でもあります。創業者の出身県であったりすると、工場が誘致されることが多くて、東京近県には、そういった大企業が進出する経緯があるようです。
昨春、足尾銅山に行ったのですが、日光経由か、群馬県の桐生経由かで行くことができますが、その日は、両毛線で桐生で、「わたらせ渓谷鉄道」に乗り換えて、足尾に行き、そこからバスで、東武日光駅に出て一周しました。新緑が綺麗でした、今頃は紅葉が美しいことでしょう。
家内の祖先は、上州から信濃にかけた武族だそうで、その家屋敷の前には、「下馬」という札が掛けられていたのだとか。有力な家系だったそうです。わが祖先は、馬から降りて通り過ぎなければならなかった立場だったのでしょう。でも馬に乗らない時代になって、家内の前で、そうしないで済むので、ホッとしている私です。
(養蚕農家、両毛線の古写真、県花のレンゲツツジ〈写真AC〉です)
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