両毛気質

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 「江戸っ子気質(かたぎ)」は、「火事と喧嘩は江戸の華!』と言われた如く、短気で、おっちょこちょいで、サッパリしていたのでしょうか。江戸日本橋、人形町の「世界湯」の風呂通いをした日々がありました。江戸っ子は、熱い風呂をグッと我慢して、真っ赤になって飛び出してしまうのだそうで、世界湯も、江戸前の熱さでした。

 どこにも、〈◯◯気質〉とよばれるものがあるようで、上野国も下野国も、関東の北端に位置し、とても似た〈気質〉がありそうです。これまで、甲斐国(山梨県)、武州(東京都多摩地区)、上総国(千葉県)、武蔵国(埼玉県)、そして下野国(栃木県)、と住んできましたが、それぞれに似たようなものと、独特なものがありそうです。

 ほとんど縁のなかった群馬県ですが、平野部と山寄りの地ではだいぶ違った気質がありそうですが、それほど厳しくない自然風土の中で、育まれたものがありそうで、今夏、水上で二日を過ごして、好い印象を得ましたので、上州贔屓(びいき)になってしまったようです。

 この上州は、織物の産地でもあり、特に桐生は、その名が有名です。西日本の〈西陣〉、東日本は〈桐生〉と言われるほど、奈良時代の昔から有名です。京の織物の技法が、桐生に伝えられ、昔から絹織物の名産地なのです。父は、「大島(薩摩国の奄美大島特産の絹織物)」で作られた着物を持っていて、凛々しく着ていました。母がそれを縫い直してくれて、着させてもらったことがありました。まさに〈馬子にも衣装〉で似合っていたのでしょう、母が眩しそうに、私の着姿を見ていたのです。

 お隣の県の影響で、栃木県佐野市も絹織物の盛んな地で、同じ桐生織物が織られていたそうです。この「桐生織」の近代化に尽力したのが、森山芳平(18541915年)でした。1895(明治28)年、京都で「第4回内国勧業博覧会」の審査員をしたほどの方でした。この方の逸話が残されているのです。
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 博覧会の途中で、この方は桐生に突然帰ってしまったのです。その審査で、地元京都の審査官の不公平さが赦せなかったのです。上州気質なのでしょう、黙っていられなく激高してしまったのです。森山自身、織物の指導者、研究者として、公平を旨として研鑽してきて、だれにも分け隔てなく教えていた方だったそうです。今では険悪な日韓関係がありますが、森山は、朝鮮半島から学びに来ている若者を、差別なく教えたのです。

 激しやすさだけではなく、不正に対する怒り、分け隔てなく人の能力を評価でき、正義感に立つのも、〈上州人気質〉なのでしょう。私は、下野人ではありませんが、この地が、明治期に、「自由民権運動」が盛んな地だったと、ものの本で読んだことがあります。

 『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ(『有喜世新聞』明治15(1882)411号)!』と言った板垣退助の主導した運動は、栃木県でも盛んで、県議会の多くは自由党員だったそうです。それを嫌った、維新政府から派遣されていた大島県令(長州人)は、県都を栃木から宇都宮に移してしまったのです。

 上州群馬も、同じく自由民権運動が盛んで、妙義山麓でも活発だったようです。上毛自由党の旗揚げもあって、自由を求める精神風土、政治気運が、この「両毛の地」には残されているのでしょう。もう少し、地域史、両毛の地の風土などを学んでみたいものです。

 「上州カルタ」の「き」は、『桐生は日本の機(はた)どころ』で、その歴史性も品質の高さも、上州人自慢なのでしょう。良い物とは、妥協やヘツライや差別のない人や風土の中で生まれ、育ってくるのです。

(「妙義山(安中市)、「桐生ふくれ織」の生地です)
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