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『これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。(2コリント5章18節)』
華南のわが家のベランダの真下に、バス通りに垂直に交差する「T字路」が見えました。ある朝、一台の自転車が、信号で止まっていた車と車の間から飛び出して、バス通りから交差点から右折して入って来た車と接触事故を起こしたのです。自転車の荷台の積荷が投げ出されただけで、人身事故にはなりませんでした。それで、路線上に、車と自転車を止めて、大きな声を張り上げて、自己主張と相手を非難する声が上がっていました。
こういった光景を、よく見たのですが、南に住む人たちは、どんなことがあっても、手を出して殴り合うことをしなかったのです。実に激しい口喧嘩だけで済ませてしまいました。ところが、天津に一年いた間に、男対男、男対女、女対女が、殴り合いをし、路上や菜市場(market)の中などで、組んず解(ほぐ)れつ、上になったり下になったりして喧嘩をする様子を、何度も見ていました。そして南に越して来たのでが、そう言った巷間の争いを一度も見たことがなかったのです。ですから、その南北の地域性の違いに驚いていました。
言い合っている言葉が、華南の方言ですから、内容は分からないのですが、あんな風に激しく言い合うと、日本人ですと、きっと手が出てしまうに違いありません。よく、『○かヤロー!』という言葉が使われると、『何おー!』と、瞬間的に殴り合いになる傾向が強い様です。よく喧嘩というか、殴り合いを、自分がしたことが、若い時にありましたが、いつもそう言った風で、血気盛んだった過去を恥じます。
アメリカ映画を見た時にも同じでした。もちろん、西部劇では、酒場で殴り合いが必ずあって、酒瓶を投げたり、椅子を持ち上げて使う場面が、見せ場としてあるのですが。題名は忘れたのですが、長い航海に乗り合わせた船客同士が、船内の狭い世界で、ストレスが溜まるのでしょうか、政治信条の違いでしょうか、時々揉め事が起こるのです。そして激しく詰(なじ)り合うですが、鼻と鼻を擦り付け、肩と肩をぶっつけ合うのですが、「拳(こぶし)」は、体の後ろの腰あたりで、両手を結んでいて、拳を握らないし、使わないで、言い合うだけだったのです。
中国人(南方の人)とアメリカ人、これに対する日本人の違いや似たことは、「言葉」に対する捉え方の違いなのでしょうか。「自己主張」の上手下手なのでしょうか、状況を言葉で言い表して、上手に相手の過失を非難し、自己弁護をする、「言葉の使用能力」の違いなのでしょうか、そんなことを考えてしまいます。
「五一五事件(1932年5月15日に起きた青年将校らによる反乱事件)」で、激した青年将校たちが、殺そうと銃を向けた時に、『話せば分かる!』と言ったのが、時の総理大臣の犬養毅首相でした。銃弾を受けた犬養首相は、『いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから!』と言って、最期まで「言葉」で説得しようとしたそうです。しかし、名相はその銃弾に倒れてしまったのです。
この犬養首相は、福沢諭吉が始めた「慶應義塾」に学んだ方でした。この慶応の校章は、ペン先が二本交差する図案で、その意味は、「ペンは剣よりも強し」です。76歳で銃弾に倒れた犬養首相が言った、『話せば分かる!』と言った言葉は、若き日に学んだ、学校の建学理念や精神の影響なのでしょうか。
もう百年も前の出来事ですが、21世紀は、もっと短絡的になって、衝動的になってしまっているのではないでしょうか。若者がキレるだけではなく、高齢者やご婦人がキレる事件が多くなっています。物が豊かになって、物を持つことで満足する人が多くになって、人対人が、物対物の無機質になったり、神経過敏になって、交わり方が下手になっているようです。昨今、〈切れる刃物〉を振るう者が多くなってきています。
〈不正に対して事実だけを言う〉がいいのだそうです、責めたり、なじったりしては厄介なことが起こるから厳禁です。さまざまな争い、不和、喧嘩には、《和解》、《赦し》、《平和》が必要です。神と和解し、神に赦されても、人とも和解し、赦されなければなりません。
(「イラストAC」からです)
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