下野国

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 今朝、7月10日の土曜日は、この二、三日の豪雨の影響で、鹿児島の薩摩川内付近が、〈数十年に一度〉ほどの命を脅かす異常事態で、緊急安全確保情報が発令されていると、ニュースが伝えていました。北関東は、久し振りの晴れでした。その報に押し出されて、ヘルメットをかぶって、自転車に跨り、懸案の「下野国」の政治中心地を探検してきました。

 中国の「律令制」を真似て、国と統治に躍起になっていた奈良朝廷は、ここ北関東を、「下野国(しもつけのくに)」と地方の国名が定められ、思川の近くの現在の栃木市に、「国庁(地方行政庁)」が置かれました。奈良時代、日本が統一されていく中での「大宝律令」が施行され、現在の下野市には、天平13年(741年)に、全国六十箇所の一つとして「下野国分寺」、その後、「下野国分尼寺」が建てられ、強固な支配体制が敷かれたわけです。

 関東平野の奥まった下野国分寺からは、大平山、男体山、筑波山、さらには富士も望められる地で、あたりは地味が肥えて、豊かに米を実らせる土地だったのです。近くに流れる思川、遠望の山々は、遠く奈良の都から遣わされた、地方行政官の「国司(くにつかさ)」たちは、遠くに任地を得て、何を思ったのでしょうか。

 久し振りの自転車の遠出でしたが、息を弾ませ、大汗をかいて、夏の陽差しに焼かれて、いい気分でした。東北本線(宇都宮線)の小金井駅から、歩こうと思ったのですが、自転車は、やはり便利でした。いつも流れの少ない巴波川を眺めているのですが、水量の多い思川の流れの音が聞こえてきました。(10日記)

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朝顔とSamantha

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 今季第一号の「朝顔」が、今朝(7月10日)開きました。なかなか開かないので、ヤキモキしていたのですが、突然咲いた感じがして、驚き喜んだところです。華南の街のベランダでも、毎年咲いてくれ、下野国でも咲いてくれ、喜びは一入です。

 もう一つ、なんと gorgeous ではないでしょうか、"Rose lily  Samantha “ と言う名の百合です。なんか私たちには似合わない花の様に感じられるのですが、見事です。いっぺんにベランダが華やいでしまった感じがしてきました。もう三輪が咲こうとしています。

 まさかの八重咲の百合だとは思ってもみませんでした。散歩途中の庭先で咲いていた百合は、とっくに開いていたので、わが百合は、どうしたのかなと思っていたのです。

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栃木

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 わが栃木市の紹介です。今は、宇都宮が県庁所在地になっていますが、栃木県の県庁は、維新間も無くの間、栃木市に置かれたことが、短期間ですがありました。時の県令三島通庸(薩摩藩士)の決定によって、宇都宮県が栃木県を吸収する形で、県都が宇都宮市になった経緯があります。当時の自由民権運動家たちが栃木にいたことが、三島県令の不興を勝ったと言われています。
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 小山や茨城の結城市にも、民権の士がいて、1884年に起きた「加波山事件(三島県令の暗殺計画)」に関わっています。渡良瀬川汚染の足尾鉱毒を訴え、天皇に直訴した田中正造も、その一人でした。気骨ある分子が、ここ栃木にはいたことになります。

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 この三島は、那須野が原を開拓奨励した人物で、第四代の警視総監(東京府警視庁)をし、在任中の54歳で没しています。御多分にもれず、薩摩藩の下級藩士でしたが、幕末の薩長主流の討幕活動に功があったのでしょう。強引さを揶揄される自民党の麻生太郎は、三島の玄孫だそうです。明治維新後は薩長の世であったことになります。
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 まさか、自分が栃木県民、栃木市民になるとは思いもよりませんでしたが、「栃の木」を県木、市木とし、「八染躑(ヤシオツツジ)」を県花とし、「紫陽花」を市花とし、「大瑠璃(オオルリ)」を県鳥、「鴨」を市鳥とする県や市に住んで、それらしく生活をしております。

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 県南の小山、足利、佐野、今は日光市になっている足尾、渡良瀬川遊水地などは訪ねたことがありますが、県北の那須ケ原方面に入ったことがありません。そこには、御用邸があり、乃木希典が住んでいた住居があったそうですし、家内の恩師が始めたアジア学院もあったり、また県東の那珂川町には、那珂川町馬頭広重美術館があるそうです。その他にも、興味を惹く地があります。追々、訪ねてみたいとの思いがあります。

 (オオルリ、栃ノ木、ヤシオツツジ、栃の実、大平の紫陽花です)

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65%

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 もう最盛期は過ぎてしまったことでしょう、私たちが住んでいた華南の街に、どこででも咲いていたのが、この「凌霄花(ノウゼンカズラ)」、「朱槿(ハイビスカス)」、「九重葛(ブーゲンビリア)」です。省面積の65%が緑を占めていると言われていましたので、ほぼ日本と同じほどに緑の多い省であり、市でした。もう灼熱の真夏なのですが、その緑や花に慰められ、力づけられたのです。ことのほか今夏は雨が多く、暑いとの便りがありました。

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温故知新

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 華南に住んでいた時のことです、わが家の近くを発着する公共バスの路線沿いに、旧市街の古い街並みがありました。その道路が、珍しくクネクネと曲がっている箇所があったのです。昔、アメリカの宣教団体が、中国の近代化のために、医学や工学の学校を建てた地域なのです。そこに、この団体が残した、大きな病院があり、いつも人で溢れています。

 その病院を避けるように、道路が曲がっているのです。街中は、ほとんど碁盤目のように、直角に作り直された道路ばかりですが、その辺りは、昔のままの街並みを見せてくれていました。地主がいて家屋や商店があって、出っ張ったり引っ込んでいたりしていて、そのような地域に住み続けたのでしょう、やはり古い中国風の家屋が残っていました。

 もう極わずかですが、路地の奥に、そんな家があって、用がなければ、バス停で降りて、散策してみようと思っているうちに、取り壊されて無くなってしまったのです。近代化は、過去を否定することではないのです。古いものに価値を見出そうとしないのは、残念でしかたがありませんでした。

 古い物は役立たずなのでしょうか。あの街でも日本でも、昔の街並みは残しておくべきだと思うのですが、火災や地震を想定して、防災と言う名目で取り壊されていくのは、とても悲しいものです。以前、この街の他の地域に住んでいた時には、かつての領事館や大学職員の住宅があった地域で、その建物に、今も代替わりで、人が住んでいたのです。

 その高台から下っていくと、旧市街と新興地域の間を流れている川になります。その長細い地域に、たくさんの古い住居が密集していたのです。散歩のたびに眺めていて、中国の庶民の生活ぶりが、興味深くうかがえたのです。ところが、これも、いつの間にか、取り壊されて更地になってしまいました。 あそこに住んでいたおじいちゃんやおばあちゃんたちは、どこに行ってしまったのでしょうか。懐かしい思い出を失ってしまった様で、泣く泣く移り住んで行ったのだろうと想像していました。

 他の路線のバス停の名前に、「李宅站」とか「刘宅站」があるのですが、その地域の地主とか名家だったのでしょう。名前だけ残って家は残っていないのです。きっと昔は、大きな敷地に、何十人もが住んでいた所なのでしょうが。そういった昔を知っている人もいなくなっているのでしょう。

 ヨーロッパでは、何百年も、同じ家に人が住み続けていると聞くと、文化遺産としての価値を高く評価しているのだということが分かります。貧しい時代があって、今があるのですから、残しておくべきだと、切に思うのですが。年寄りの「冷や水」でしょうか。古き良き時代を大事に保護しておきたい、「温故知新」の私です。

(街の中心に行くためのかつての橋です)

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無限、永遠、不変

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 B.B.ウオーフィールドという聖書学者が、次の様に言っています。

 『自らの中に神を求めることから始める人間は、自分と神との関係を混乱させるだけである!』

 八百万(やおよろず)の神を奉ずる日本人の神観、何でも神としてしまう国民性は、一つには特技なのかも知れません。つまりは、〈私がお世話しないと立っていけない神〉を神としているのでしょう。という考えは、自らのに神を見出そうとしている「混乱」からきているのでしょう、何もが神を宿す様に信じてしまうからです。

 「ウエストミンスター小教理問答」に、次の様にあります。

 問4 神とは、どんなかたですか。

 答  神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。

 安中藩の江戸屋敷で生まれた新島襄は、漢訳聖書を読んだ時に、深い感銘を受けたそうです。江戸にも安中にも、数限りない神々が祀られ、人々が信奉している中に育ったのですが、その聖書の巻頭にあった一文を読んだ時、『神がおられるなら、これこそが神に違いない!』と強く思ったそうです。その頃のことを次の様に、新島は述懐しています。

 『・・・私はそれらを熟読した。いくらか懐疑を覚えたけれど、またいくらかは畏怖の念にうたれた。以前に勉強したオランダ語の書物を通して、創造者という言葉は知っていたが、中国語で書かれたこの短い聖書の歴史の中で、神の宇宙創造に関する単純な物語を読んだ時ほど、創造者という言葉が胸にひびいたことはなかった。私たちが生きているこの世界は、神の見えない御手によって創造されたのであって、単なる偶然の産物ではないことを私は知った。』

 彼は、その神さまをもっと知りたくなり、アメリカに密航を企てるのです。日本人初の学士は、この新島襄でした。彼は、帰国を前に、明治維新政府による使節団がアメリカを訪ねた時、新島は通訳吏として働きました。それで明治政府から帰国を咎められることなく帰国し、多くの有為な卒業生を送り出すに至る「同志社」を、京都に興します。 

 新島は、社に祀られ、目に見える神ではなく、万物を創造し、統治し、イエス・キリストの十字架を通して救いの道を示された神さまと出会い、仕え、伝えて、46歳で帰天しています。イギリスで、子どもたちが、神がどなたかを知るために編集された「小教理問答書」は、「神は霊であられる」と告白します。

 切り刻んだり、鋳たりした像を、拝み続けてきた者の子が、《霊である神》を、聖書を読んで知り、その神の高貴な人格性に圧倒され、神のみ心の中を、自分の知性、意思、感情を傾けて仕えた生涯を送ったのです。この神は、ご自分を啓示するのです。パウロにもペテロにも、そして私たちにも《語りかける神》でもあります。

 エデンの園での罪以来、人類は、そこから追放され、彷徨ってきました。神への反逆、神に摂理への反抗、自然の理への否定、善や義や聖への不善と不義や汚れ、神より悪魔、聖霊より悪霊、義より不義、善より悪、光より闇、真理より虚偽、謙遜より高慢、神の国よりこの世、成熟より怠慢の中を過ごしてきています。

 神は、人の罪の結果を看過できず、その独り子を、人の姿をとって、この世に遣わされました。信ずる者の罪の身代わりに、罪となってくださって、十字架で、義なる神の処罰を受けてくださったのです。その贖罪の業に満足された神は、私たちに罪を赦してくださったのです。

  この神さまは、「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」と記しています。初めからおられ、知恵に富み、力にあふれ、聖なるお方で、義であるので義を愛され、真実で誠実で忠実なのです。そんな神さまご自身もその属性も、「無限」、「永遠」、「不変」だと続けます。

 私は、山に篭り、滝水を浴び、食を断ち、妻を遠ざけ、粗衣で身を纏って、遠出もせずに、じっと座して悟ったのではありません。神さまご自身が、突然に、私に顕われ触れてくださったのです。それが、私の「聖霊体験」でした。まさに神秘的なことで、自分が、どれほど汚れに満ちたものかが分かり、その罪を知らされ、涙を流してその罪を悔いたのです。それで赦された喜びで満たされました。人生の方向を変えられ、全く晴れやかに、新しくされたのです。

 遥か遠くにおられる様に感じていた神が、傍に、いえ内側にいる様に感じられたのです。伴に傍を歩んでくださり、教え、示し、ある時は叱り、矯正してくださっています。あれから半世紀です。創造者であり、統治者であり、救い主であり、助け主である神を知ることができたのは、幸せでした。

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命の息吹の様に

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 ビール工場と作付けを契約した農家の畑だと聞いていましたが、畑の黄色く色付いた大麦は、まるで風に揺れると《黄金の海》の様に輝いていました。秋の稲とは違って、春になって見られる光景は、実に見事で、圧倒されてしまいます。

 長く過ごした中部山岳の盆地では見ることのなかった光景なのです。東武線を浅草の方から北上してくると、利根川や渡良瀬川の近くから、その光景が見られるのですが、ここに住み始めて二年半、街中を離れると、その光景が見られるのです。まさに命の息吹の様です。

 あの景色を見ていますと、「創世記」に記される、エジプトでの七年の豊作の有様を、たくましく想像させてくれるのです。風にたなびく麦を刈り取って、やがて訪れる七年の大飢饉に備えて、前もって建てた多くの穀物蔵に、収穫された麦を貯蔵させる国家的事業を指揮したのが、ヨセフでした。その蓄えは世界を飢饉の中で救い、救い主の誕生の民族を救ったのです。

 すでに大麦は刈り取られ、畑は耕運機が掛けられて、今度は田圃に変わり、水が張られ、田植えがすんだと思ったら、苗がズンズンと伸びて、今朝散歩した田表は青々として、これもまた見事なのです。何千年となく繰り返され続いてきた生業なのです。

 一度だけ、東京の郊外の農家で、田植えの手伝いをさせていただいたことがありました。残念なことに借り入れや脱穀に手伝いはしたことがありませんが、今でもお手伝いしたいと思うのですが、農耕の機械が導入されて、人の手で植えたり刈り取ったりすることは無くなってしまった今です。

 畑や田圃の脇に立つと、命を宿して育てていく土の中から、命の息吹が感じられてなりません。人が生きていくために、食物を備えられた神の善意の息吹でもあります。ベランダの鉢の中の土にも同じ使命があるのでしょう、ミニトマトをズンズンと大きく育てていてくれます。

 エデンを追われたアダムに、神さまは、「耕すこと」を委任されました。人類は、穀物栽培法を知っていて、次の季節の収穫の備えて種を残したのです。米も小麦も、人類に歴史とともに栽培され、刈り取られ、食卓に上って、食され続けてきたわけです。母が炊き、家内が炊き、今は私が炊く様になっている米飯です。お腹いっぱい食べた頃が懐かしく思い出されます。娘が、穀物に食べる量を少なくする様に言ってきて、今や、1合(1cup)を二人で食べています。

 華南の街に、日本の納豆を売っている店があって、よくバスに乗って買いに行きました。上海で作った冷凍品ですが、黒竜江省で作った「秋田小町」と食べると、実に美味しかったのです。徳島に留学した方がいて、徳島弁訛りの日本語を話されるのですが、この方が納豆が好きで、その納豆をご馳走したことがありました。今晩も、納豆ご飯にでもしたいものです。

 こちらの畑では、大豆も栽培されています。一昨日は、枝豆を買ってきて。塩茹でをしないで、そのままゆでて食べたのですが、実に美味しかったのです。父が好きだったでしょうか。甘い物を食べない代わりに、今は、「炒り大豆」を三粒、五粒と口に運んで、香ばしい香りを舌で味わい楽しみながら、満悦のこの頃です。
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今咲く花

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 今散歩で見られる花です。凌霄花(ノウゼンカズラ)、木槿(ムクゲ)、立葵(タチアオイ)が最盛期でしょうか。梅雨空の中、その立ち姿は素敵です。箱根では、先週末、600mmもの雨量が記録されたそうです。熱海で崖崩れのニュースがありました。

 どの花も好きなのですが、中部山岳の街で初めて見て、知った、「木槿」は、花の形も色彩も派手でないのが気に入って、それに健気に暑さや雨に負けない姿が、何かがああって励ましを受けてから好きになってしまったのです。ベランダに植えるには、大きくなる花木ですから、ちょっと無理だと分かって、散歩で見つけています。

 道のべの 木槿(もくげ)は馬に くはれけり

芭蕉が、そう詠んでいます。木が3、4mにもなる高木だから、芭蕉は、それを強調しているのでしょう。栃木県南の野木町(栃木県下都賀郡)に、この句碑が残されている様です。

 ソウルには何度か出掛けて、研修会に参加したことがありましたが、大韓民国の「国花」だと言われていますが、一度も見掛けたことがありませんでした。平安期に、朝鮮半島を経由して日本にも入って来たのだそうです。今日は散歩の途中に、足を止めて見入ってしまいました。また励まされました。わが《激励花》です。

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ふるさと

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 車の運転をやめ、散歩する様になって、住む家の周辺の様子を眺めながら歩くので、建物の陰や道路の窪地、路地の奥などの咲く花を見つけて、嬉しくなるのです。江戸期から、宿場町で商都でもあったから、蔵が点在し、そこを改装して住居にして住んでいたりしています。

 一昨年の秋の洪水で、冠水し老朽化した家には、結局は住めなくなって、多くの家が取り壊されてきました。市の災害援助があるので、それが加速しているのでしょう。この一年ほど、空き地が目につく様になっています。以前、お店をしていたのが、看板で分かるのですが、肉屋、八百屋、洋品店、蕎麦屋などが閉じています。贔屓をしていたお客さんが少なくなり、お子さんたちが、家を継がないのでしょう。大きなスーパーが出店したのも、その理由でしょう。

 今住むアパートも、以前は、この敷地で小型スーパーをしていたそうで、それ以前は回漕問屋をしてたと、隣に住まれる大家さんのお姉様に聞きました。江戸や明治期には、巴波川の舟運をした当時の出納帳を、先日見せていただきました。その頃の古松はにわにうえられてあり、記念物ものの三百年松です。

 昔、都人が、偉ぶって歩いていた日光例幣使街道の一部を「ミツワ通り」と呼んでいたそうで、電車で降りた近郷の方たちが、そぞろ歩いて買い物をされたのでしょうけど、今は、その影を追う様に、ひっそりしています。そこを曲がると、きっと「銀座通り」と呼ばれたに違いない通りがあります。そこも呉服店などは頑張っておいでですが、多くの商店の戸が下ろされているのです。

 この私のブログを読んでくださった、この近くの出身の方が、遊び回られたのでしょう、昔の街の様子を教えてくださいます。元禄二年、芭蕉が、紀行の途次にわざわざ訪ね、『室の八島に詣(けい)す。』と記した「室の八島」のことを、この方が研究されておいでです。郷土愛からの街の昔を教えてくださいます。時々、神奈川県下からお便りをいただくのです。家内も、散歩で出会う老婦人たちから、色々と昔話を伺ったり、先日は玉ねぎやジャガイモや煮物をいただいて帰って来ました。

 同じアパートの住人の実家の話や、家族構成まで知っていて、情報通の昔の隣組なのでしょう。ここには、「隣組」が残っているのでしょう、回覧板の受け取り箱まである家があります。岡本一平の作詞、飯田信夫の作曲の「隣組」を思い出します。

とんとん とんからりと 隣組
格子(こうし)を開ければ 顔なじみ
廻して頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり

とんとん とんからりと 隣組
あれこれ面倒 味噌醤油
御飯の炊き方 垣根越し
教えられたり 教えたり

とんとん とんからりと 隣組
地震やかみなり 火事どろぼう
互いに役立つ 用心棒
助けられたり 助けたり

とんとん とんからりと 隣組
何軒あろうと 一所帯
こころは一つの 屋根の月
纏(まと)められたり 纏めたり

 今頃は、ハスの花が数千本見られる「つがの里」は花盛りだそうで、歩いて行ける距離ですが、昨日訪ねて来られた若いお母さんに、『ご一緒しましょう!』と言ってもらいました。「タンドリーチキン」を作って、持参された漬物で、お昼を一緒にしました。お嬢さんが、《創作大好き小女》で賢い一年生なのです。『百合さん、準さん!』と呼んでくれる、小朋友なのです。『ユリさん、大好き!』と言われて家内は、ご満悦です。今や《第四のふるさと》です。

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一円玉

 

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 まだ子育て中でしたが、「一円玉の旅がらす」という歌が流行ったことがありました。NHKの「みんなのうた」で、作詞が荒木とよひさ、作曲が弦哲也による歌で、1990年2月に発表されました。

一円玉の旅がらす
ひとりぼっちで どこへゆく
一円玉の旅がらす
あすは湯の町 港町
一円だって一円だって
(こい)もしたけりゃ夢もある
ああ 出世街道(しゅっせかいどう)どこへゆく

一円玉の旅がらす
好きなあの娘(こ)を ふりきって
一円玉の旅がらす
風に浮雲(うきぐも) 子守唄
一円だって一円だって
(うま)れ故郷にゃ母がいる
ああ 出世街道どこへゆく

一円だって一円だって
恋もしたけりゃ夢もある
ああ 出世街道どこへゆく

 結構楽しい歌でした。「一円」は、足りなくても、『いいですよ!』と言われることが多いのですが、切手を買ったり、税金を納める時には、無くては困るものです。消費税がつき始めてからは、よく使う様になりました。でも、ほとんどの場合、ありがたがられないアルミ貨で、机の抽出しや瓶の中に、使われないで置かれているのが現状です。

 お金にまつわる思い出があります。ある時、ネットで古本を買いました。その本が届いて、ページを繰っていましたら、「五百円札」の新札が挟まっていたのです。もう硬貨に変わって、普段はお目にかかる事のないお札なのですが、黙ってポッケに入れてしまうのが嫌で、古本屋さんにメールで、『どうしましょうか?』と聞いたら、『ええ、もうお使いになってよいのではないでしょうか!』と返事がありました。

 この「五百円札」の運命を逞しく相応してみたのです。出版されたのは昔でしたので、新書で買った頃には、結構価値があったのでしょう、ご主人が買われて、お釣りにもらったお札を、そっと本に挟んだに違いありません。「中華そば」だったら、ゆうに2杯は食べられた時代でした。『これで家内と一緒に中華そばでも食べようか!』と挟んだまま忘れてしまったのでしょうか。

 そのご主人が亡くなって、奥さんが蔵書整理をして、古本屋さんに買い取ってもらったのが、私が買い求めた一冊なのでしょう。使われなかったお札が、古書と共に旅をして、私の手元にやって来たのです。それを事務所に置いたままで、華南の地に戻ってしまいました。ところが留守中に、本は処分されてしまい、また、どこかの古書店に買い取られ、あれからまた旅が続いているかも知れません。ちょっと気掛かりの「五百円札」であります。

 最近は、クレジットカードとか、スーパーマケットの自社製のカードでの買い物がほとんで、どこの〈百均〉でも、現金でしか買えないと戸惑ってしまうのです。昨日は、一円玉がないばかりに、九倍の一円アルミ貨が釣り銭で渡され、金貨入れが増えてしまいました。そう言えば、五十銭札、一円札、五円札を使ったことがあったのを思い出します。カード社会のアメリカの1cent も同じ扱いなのでしょうか。

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