線路の向こうに春を見たい

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 子どもの頃に住んでいた父の家から、旧国鉄の線路を走る電車を見ることができました。その線路と道路の交差地点には、遮断機を上げ下げする踏切があり、上り下りの電車の行き来は、今の様に激しくない時代だったのです。この踏切の脇には、踏切番小屋があって、おじさんが常駐していました。

 また、その奥の方には、鉄道線路の保線区があったのです。電車や汽車に乗る人に切符を売り、駅の業務に携わる駅員がいて、それを動かす運転手と車掌がいて、その電車や汽車の安全走行を確保するための保守点検、修理ををする人もいたわけです。

 信号器は、手旗からカーバイドのガスを燃やす炎での手信号の「カンテラ」に代わっていました。その燃えかすが、保線区の脇に捨てられていたのです。それを拾っては、小川に投げ込むと、そのガスで、鮒やハヤの小魚が浮いてきて、それを手で掴んで家に、持ち帰ったのです。それを母が醤油と砂糖で煮て、佃煮のおかずにしてくれたことがありました。

 保線区の中には、線路の整備の道具類がきちんと整理されて置かれていました。スコップやツルハシ、背丈もある様なバールや、金属の切断機などがあって、珍しく眺めていました。あの整頓された作業場に入らせてもらうことができたのです。『邪魔まだ、あっちに行ってろ!』なんて言われなかったのです。友人のお父さんが、国鉄職員で、その職場だったからでもあったからでした。

 決まった鉄路区間を、そう言った整備で管理されていたのです。どんなに昔の日本の現場の仕事が、十二分に注意深くなされていたかが、今になると分かり、感心させられます。汽車が走っていた頃、事故を起こさないための「愚直な努力」が積み重ねて行われていた時代だったのです。不注意の許されない専門集団でした。

 父は、旧国鉄に納品する部品を作る会社で仕事をしていました。電車や汽車の車輪を制御ブレーキのパーツでした。そんなこともあって、動く電車や汽車には、関心が自分にはあったのです。よく、国鉄職員になろうと思わなかったなと、今になると不思議なのです。

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 今住んでいる家からも、駅に出入りする、始発と電車の姿を見ることができます。今は、駅の近くは、高架になっていますので、この四階から、眺められるのです。朝一番の電車が暗闇の中を抜けてくるのが眺められます。もう少し暖かくなったら、この電車で、会津若松に行ってみようと思っているのです。

 JR両毛線で小山に出て、東北本線で郡山に行き、そこから磐越西線で会津若松に行けます。帰りは、会津若松から会津電鉄、野岩鉄道会津鬼怒川線(東武鬼怒川線)、東武日光線で戻ることができるのです。もう少ししましたら、爛漫の春を感じに、電車に乗り継いで行くことにしましょう。

(ウイキペディアの線路、会津五桜〈石部桜(いしべざくら)、薄墨桜(うすずみざくら)、虎の尾桜(とらのおざくら)、杉の糸桜(すぎのいとざくら)、大鹿桜(おおしかざくら)〉です)

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