単純に信仰を継承して

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 聖書、新約聖書の多くの部分を書き記したパウロは、ユダヤの律法を学んだ人でした。ナザレ人イエスと、キリストの教会を迫害する者から、イエスの十字架の死と復活とを、心から信じる者に変えられた人でした。

 そして、地中海世界からローマに至るまで、「良きおとづれ」である、「福音」を宣べ伝える「異邦人への使徒」と変えられるのです。自分の生涯を、福音宣教のために捧げ、神の教えやご計画を書き残す務めに任じられ、最後にはローマで殉教の死を遂げたと歴史は伝えています。

 「使徒の働き」の中に、そのパウロを殺そうとした40人が、イスラエルにいたと記してます。律法に背いて、パウロを打つ様に命じた、その当時の大祭司アナニヤを、「白く塗った壁」と、パウロが言いました。

 その殺害計画を、不思議な方法で、パウロは免れます。そして、福音宣教の働きを継続するのです。教会の歴史の中には、パウロの語る福音への反発があって、「パウロの教え」への攻撃が繰り返されてきています。まさにそれは、「パウロの教えの抹殺」と言えるのかも知れません。

 イエスさまを十字架の上で殺害したのは、当時のユダヤ宗教の指導者たちで、彼らのイエスさまへの憎悪によるものでした。イエスさまは、訴える者に対して何一つ申し開きをすることはしませんでした。彼らにご自身をまかせたのです。そして十字架の上で死なれたのです。

 その十字架によって、信じる者たちを救われる父なる神さまは、罪を犯した人を赦すために、イエスの十字架を彷彿とさせようとしてでしょうか、預言するかの様に、奴隷の家にあったイスラエルの民を、その立場から解放し、荒野に連れ出される前の晩に、驚くことをなさったと、「出エジプト記」は記しています。

 屠られた小羊の血を、家の門口の鴨居と二本の門柱に塗るように言われたのです。滅びの使いが遣わされ、エジプト中の初子を打った時、その血の印のある家を、滅びの使いが通り過ぎて行ったのです。それを「過越と言います。

 その民族の歴史的な事実を記念して、イスラエルの民は、「過越の祭り」を、今に至るまで、守り行ってきているのです。イエスさまは、まさに「過越の小羊」 でいらっしゃると言うのが、聖書の使信のことばです。漢字の中に、「義」があります。漢民族は、その奴隷の家を脱出する前の晩の出来事を知っていたのでしょうか。神の前で正しいとされる者の「義」が、奴隷の家を脱出した晩の出来事を伝えるかの様に、「羊」と「我」に解字することができるのではないでしょうか。古代中国人は、そのことを知っていて、漢字で、それを認めたのです。

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 聖書の記す真理を攻撃することは、たびたび起こったことでした。救いとか、贖いとか、義認などと共に、神の救済上のご計画が曖昧にされています。救い主を、十字架で殺した様に、教会が守り続けてきた教え、真理を否定する者が、たびたび起こっては消え、起こっては消えてきて、「真理」を曖昧にし、否定してきています。

 万人救済論、新神学、セカンドチャンスの教えなどは、その最たるものです。神中心から、人間中心のヒューマニズムは、聖書の記述を、ある部分を信じられないままでいます。万物を創造する部分を神話だとしたりしています。神の偉大さを信じられずに、人間の思考の水準に引き落としてしまいます。もちろん十字架の贖罪の死も、死からの復活も、最後の審判も信じないのです。

『しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神のが示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神のであって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしにと認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身のを現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身のを現すためであり、こうして神ご自身がであり、また、イエスを信じる者をとお認めになるためなのです。(新改訳聖書 ローマ3章21〜26節)』

 難しい「義認」とか「贖罪」などを、パウロは、そのいくつもの書簡によって教えているのです。そう言ったものの意味をぼかしたり、曖昧にしたり、転向させたりしてしまって、「聖書の真理」を曲げたり、消したり、抹殺してしまう時代が、再びきている様に思えてしまいます。

 2000年も前のパウロの殺害計画は、今も、「パウロの教え」を葬り去ろうとする傾向と重ねられている様に、私にも思われれなりません。歴史は繰り返されるのでしょう。罪を曖昧にして、重大視しない傾向に、そう言ったものが窺えてなりません。聖書の記述を信じられず、真理を曖昧にする傾向は、止まない様です。

 母の信仰する、その信仰を生きている姿を見続けたり、育ててくださった宣教師さんたちの教え、読んだ書籍で学んだ正統の教えを、ただ単純に信じてこられて、この上もなく感謝な思いにされる、今の私なのです。

 末の子が3歳くらいだったでしょうか、『イエスさまは痛かったんだね!』と、長岡照子さんの朗読する、カセットテープの聖書のお話を聞いて、涙を流して、そう言っていた日がありました。自分のために、イエスさまが十字架にかかって死んでくださったと聞いて信じたのです。今や、もう40になっている彼が、まだ、そう思い続けているかなと、思ったりしているのです。そんな単純に、祖父母、両親の聖書信仰を継承をしているのかも知れません。実事嬉しいことです。

(Christian clip artsのイラストです)

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