尽きない古代への浪漫が

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http://www.metmuseum.org/art/collection/search/53154 Japan, ?Flame-Rimmed? Cooking Vessel (Kaen doki), Earthenware, H. 20 7/8 in. (53.1 cm). The Metropolitan Museum of Art, New York. Mary Griggs Burke Collection, Gift of the Mary and Jackson Burke Foundation, 2015 (2015.300.258)

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 栃木県の県北の那須地方にある大田原市に、湯津上と呼ばれる地に、笠石神社があり、その隣接地に、「下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)」があります。そこは古墳群をなしているのだそうで、「日本考古学発祥の地」と呼ばれているのです。

 私たちが、日本史で学んだのは、アメリカ人の生物学者、E.モースが、走り始めた東海道線の汽車の中から、1877年に見付けた「大森貝塚」が、日本の考古学研究の上で、最古のものでした。モースは、明治政府のお雇い学者として、学術的に大きく貢献でしたのです。その大森が、「日本考古学発祥の地」だとされてきて来ました。

 こちらに住み始めてから知ったのですが、湯津上の地で発見されたものの方が、古いのだと聞いています。徳川の親藩、水戸藩の水戸光圀によって調査が行われたのが、1692年(元禄5年)でしたから、200年近くも古く発掘されていたのです。この墓所の築造時期は、古墳時代期の初期の四世紀末頃だったと推定されています。

 日本中どこにも、墓所があり、とくに指導的な立場の人、豪族の頭が亡くなると、それなりの葬儀が行われ、大きな墳墓に埋葬したのでしょう。土の中に、遥か昔の人が埋葬されたり、先人たちが住んだ住居跡が埋もれているわけです。

 小学校の時に、山奥から東京に引っ越して来て、住み始めた街の川のそばに、住居跡があると、級友から聞いた私は、そこに跳んで行ったのです。木切れを見つけて、夢中になって土を掘り起こすと、土器の破片や鏃(やじり)らしきものが出てきて掘ったのです。何度も、そこに通った記憶があります。

 古代人の生活に強い関心があったからだと思います。中学に入ると、高等部に考古学部があって、担任で社会科を教えてくれた教師に誘われて、発掘調査に参加させてもらったのです。それは、大人になった様に感じて、とても喜んで発掘に加わったのでs。

 夏休みになると、学校の近くにあった駅の周辺や、自分の卒業した小学校の校庭、京王線の線路脇にあった、大きなミシン工場の敷地などに出かけては、スコップや移植ごてや箒などで、発掘作業をしたのです。自分よりも遥か昔に、古代の人たちが生活をしていたことに、「浪漫」を感じたからだったからなのでしょうか。土中から、家の支柱跡や土器などのかけらを見つける喜びを味わったのです。

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 それは楽しくて仕方がなかったのです。きっと侍塚古墳を掘り進んだ光圀公の命を受けた人たちも、そんな興味を引き出されて、この古墳を、発掘班の面々は掘ったことでしょう。

 墓に埋葬された人にpは興味がありませんでしたが、長い歴史の間に、盗掘が行われて、埋葬品が散逸してしまうことが多かった様です。しかし、生活跡には、人の生きた形跡があって、興味津々だったのです。何を思い、どの様な願いを持ち、どんな会話をしながら、古代の人たちが生きていたかに興味が尽きなかったからです。

 もう暖かくなりましたので、自転車を携行して、電車で出掛けてたくて、もう何年も前から準備中なのです。壬生町に残されている「牛塚古墳」には、すでに数年前に出掛けていますので、今度はもう少し北に位置した、大田原市に出かけたく、ムズムズと虫が騒いでいるのです。『三つ子の魂百までも』、小学生の夢を、今も引きづり続けている私なのです。

実は、オリエント古代や、聖書の記述にある古跡には、子どもの頃から興味があったのに、それも果たせないままなのです。そこには、もう出掛けて行く機会はなさそうですが、映像を見る気とで済ませているんが、ちょっと残念なのです。

(ウイキペディアによる縄文土器、下侍塚興奮です)

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