美味しい思い出ばかりが

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 私たちの父は、子どもたち四人を喜ばす術(すべ)を心得ていたに違いありません。きっと、どんな風に喜ばせるかの”policy “があったにちがいありません。『男ばかり四人の子が、不良にならないための秘策だった!』に違いなさそうです。兄弟間で技を磨いたので、喧嘩だけは強かったのです。『泣いて帰って来たら家に入れない!』と言われて、晩飯にありつくために、そして温かな布団を確保するためにも、泣き面で帰って来るわけには行かなかったからです。

 そんな四人に、アイスクリーム製造機を買ってくれたことがありました。手回しのドラム式で、ドラムの中に氷と塩を入れて、ハンドルで回して、トレーの中の卵やミルクや砂糖の液が、ドラムにくっつくてくるのを、ヘラでこそぎ落として、アイスクリームとして器に入れて食べさせてくれたのです。あれは美味しかったのです。

 東京から仕事を終えて帰って来る父は、ソフトクリームをドライアイスのケースに入れて持ち帰ってくれました。コーンに入れたミルクいっぱいのあの味も忘れられません。あん蜜、ケーキ、薄皮饅頭、鰻の蒲焼、カツサンド、佃煮などなど、あの時代に、あんなに恵まれていたのは、我が家だけだったでしょうか。

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 札幌の整形外科病院で、「腱板断裂」に治療で入院したことがあって、その術後の診察で、家内同伴で、再び病院を訪ねたのです。帰りに、函館の教会を訪ねました。若い頃から兄の様に慕っていた牧師さんが始められた教会でした。あいにく、他の教会の奉仕で出張されておいででしたが、その礼拝に出て、函館の空港から飛行機に乗ったのです。その時、ロビーの売店で、美味しそうに、年配の外国人の方がソフトクリームを食べていて、見てたらつられて、買って食べたことがありました。

 このsoft creamですが、8年間、共に過ごした宣教師さんが、流石のアメリカ人でしたので、甲斐清里のソフトクリームが大変好きだったのです。その後も、東京の母教会がある市の運営する宿泊施設が、八ヶ岳山麓にあって、そこで何度も交わり会を持ったのです。交わりの合間に、そのソフトクリームを食べた、いえ舐めた懐かしい思い出の味なのです。

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 それは、ポール・ラッシュが、1938年、日米開戦前に始め、戦後に再開した、「キープ協会(Kiyosato Educational Experiment Project)」があります。そこで日本中から若者がやって来ては、おもに酪農の研修をしたのです。広大な敷地の中に、宿泊施設や、記念館や、創設者のPaul Rush が過ごした家が残されてあります。そこに清泉寮があり、ソフトクリームの売店もあって、大人気なのです。あの宣教師さんは、二つも食べたことがあったほどでした。

 宣教師さんの友人たちが招ねかれては、そこで学び会をしたことがあります。懐かしい写真が残されていますが、みなさんすでに帰天されていてしまいました。思い出ばかりの地でもあります。

『このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。(新改訳聖書 イザヤ45章12、18節)』

 神さまが造られた世界を、飛び駆け回り、そこに産する物を食べて、ただ恩寵のうちに生かされてきました。その神さまは、父と母の愛の中に育つ様にしてくださったのです。理想的な家族ではなかったのですが、ただ神の憐れみによりました。父の策が奏功したのでしょうか、4人は踏み外すことなく生きてこれたのです。駆け回った野原や魚を釣り上げ、水遊びをした川などの創造の世界が、光や闇の中に、その面影が浮かんでまいります。

(ウイキペディアの清泉寮の牧場、ジャージ牛、ソフトクリームです)

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