命の息吹の様に

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 ビール工場と作付けを契約した農家の畑だと聞いていましたが、畑の黄色く色付いた大麦は、まるで風に揺れると《黄金の海》の様に輝いていました。秋の稲とは違って、春になって見られる光景は、実に見事で、圧倒されてしまいます。

 長く過ごした中部山岳の盆地では見ることのなかった光景なのです。東武線を浅草の方から北上してくると、利根川や渡良瀬川の近くから、その光景が見られるのですが、ここに住み始めて二年半、街中を離れると、その光景が見られるのです。まさに命の息吹の様です。

 あの景色を見ていますと、「創世記」に記される、エジプトでの七年の豊作の有様を、たくましく想像させてくれるのです。風にたなびく麦を刈り取って、やがて訪れる七年の大飢饉に備えて、前もって建てた多くの穀物蔵に、収穫された麦を貯蔵させる国家的事業を指揮したのが、ヨセフでした。その蓄えは世界を飢饉の中で救い、救い主の誕生の民族を救ったのです。

 すでに大麦は刈り取られ、畑は耕運機が掛けられて、今度は田圃に変わり、水が張られ、田植えがすんだと思ったら、苗がズンズンと伸びて、今朝散歩した田表は青々として、これもまた見事なのです。何千年となく繰り返され続いてきた生業なのです。

 一度だけ、東京の郊外の農家で、田植えの手伝いをさせていただいたことがありました。残念なことに借り入れや脱穀に手伝いはしたことがありませんが、今でもお手伝いしたいと思うのですが、農耕の機械が導入されて、人の手で植えたり刈り取ったりすることは無くなってしまった今です。

 畑や田圃の脇に立つと、命を宿して育てていく土の中から、命の息吹が感じられてなりません。人が生きていくために、食物を備えられた神の善意の息吹でもあります。ベランダの鉢の中の土にも同じ使命があるのでしょう、ミニトマトをズンズンと大きく育てていてくれます。

 エデンを追われたアダムに、神さまは、「耕すこと」を委任されました。人類は、穀物栽培法を知っていて、次の季節の収穫の備えて種を残したのです。米も小麦も、人類に歴史とともに栽培され、刈り取られ、食卓に上って、食され続けてきたわけです。母が炊き、家内が炊き、今は私が炊く様になっている米飯です。お腹いっぱい食べた頃が懐かしく思い出されます。娘が、穀物に食べる量を少なくする様に言ってきて、今や、1合(1cup)を二人で食べています。

 華南の街に、日本の納豆を売っている店があって、よくバスに乗って買いに行きました。上海で作った冷凍品ですが、黒竜江省で作った「秋田小町」と食べると、実に美味しかったのです。徳島に留学した方がいて、徳島弁訛りの日本語を話されるのですが、この方が納豆が好きで、その納豆をご馳走したことがありました。今晩も、納豆ご飯にでもしたいものです。

 こちらの畑では、大豆も栽培されています。一昨日は、枝豆を買ってきて。塩茹でをしないで、そのままゆでて食べたのですが、実に美味しかったのです。父が好きだったでしょうか。甘い物を食べない代わりに、今は、「炒り大豆」を三粒、五粒と口に運んで、香ばしい香りを舌で味わい楽しみながら、満悦のこの頃です。
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