違い

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 二度読みしていたましたら、可笑しくて吹き出してしまいましたので、ここに掲出してみます。テレビがありませんので、観ることはないのですが、日本テレビの番組の「笑点」で取り上げられたものです。

 身につまされると言ったらいいのでしょうか、共感してるというのでしょうか、ここに取り上げている二つの年齢の後半になっていますので、わが身のあの日と明日、いえ今日の日の違いを、こんなふうに捉えて笑わせるのは、だれも傷つかないのでいいものです。

 新宿の伊勢丹のそばに、「末廣亭」があって、寄席囃子に誘われて何度も入ったことがありました。江戸の笑いを今日に伝え、何があっても、微笑んでか、ニヤニヤ笑ってか、生きてきた日本人の楽しみだったのでしょう。 ちっと毒があって、人を吹き出させるのでしょう。

 2000万人ほどいると言われている「糖尿病」の仲間入りをしてしまって、体重減に散歩に励み、甘いものを避けながら生活しているのですが、偏差値を気にした覚えはないのですが、血糖値が気になっているこの頃です。

 弟から、『多少は冷やした水羊羹など問題ないと思いますが!』と言ってきてくれています。《ご褒美》が好きなので、つい、体重減に成功し、主治医に『この数値で糖尿病でしょうかね!』と言われて、その気になると油断してしまいそうで、気を張っています。張り過ぎると、プツンといきそうで、それもまた〈注意注意〉のこの頃です。

 ちなみに、アラカン(嵐寛寿郎)は、77才で、脳血栓で倒れて亡くなっています。「鞍馬天狗」は当たり役でしたが、晩年にも映画出演をしていました。父の世代の映画俳優を思い出してしまいました。
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これほどの慰め

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 「聖餐」のあり方について、ルター派、メランヒトン派、カルヴァン派、ツヴィングリ派の間で、激しい神学論争がありました。それを終わらせるために、フリードリッヒ三世が、二人の人を選任し、「信仰問答書」を作らせます。

 ウルジーヌスとオレビアーヌスの二人が、共同作業で、カルヴァンやブリンガーなどの「教理問答」を参考にして、共同作業で、あくまでも「聖書」を基盤に書き上げています。そして1563年に、出版されたのが、「Heidelberger Katechismus/ハイデルベルク信仰問答」でした。

 問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」

 答  わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

 また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。

 そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。』

 まず、「生きるにも死ぬにも」と問いかけています。私たちは、生きる様にと祝福されて生まれてきています。でも、生きるだけではなく、やがて必ず訪れる「死ぬとき」にも、私たちは細心の注意をする様に、ここで促しているのです。

 生きるにしろ、死ぬにしろ、私たちに必要なのは、「ただ一つの慰め」なのです。生きていくには、神が下さる「慰め」を必要としています。聖書の「慰め」は、激励や祝福や生きる力の目的や力の付与、さらに「支え」などを意味しています。第三位格の「聖霊」は、慰め主でもあります。

 私たちは、いつでも「死」と対峙しながら生きています。死の恐れを、だれもが知っていて生きているのです。台風接近の海水浴中に、引いていく波に連れて行かれそうになっった時、『死ぬ!』と思いました。ところが次の押してくる波にかつがれる様にして砂浜に上げられたことがありました。上階のガス爆発事故で、引火してもおかしくない状況で、家族全員がなんの被害も受けなかったのです。その時も死んでいてもおかしくない状況でした。死に直面し、恐れや不安に見舞われても、私たちを所有されるのは、国家でも会社でも団体でもなく、

 『わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。』

 救い主、助けぬし、慰め主が共にいてくださり、神の子である私は、この神の「所有」だということを確信するのです

 また、生きるにも死ぬにも、キリストが私たちを御自分のものとして守ってくださいます。

 『この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。』とあります。

 自分では、どうすることもできない隠れて犯した恥ずべき罪を、十字架の血で償い、誘惑者の手を縛り上げて、滅ぼせないほどに制限してくださって、生きてきました。「天路歴程」に出てくる旅の基督者を、獅子が吠えたけて飛びかかろうとしますが、獅子は鎖に繋がれて、脅すことはできても、爪や牙で触れられない様にしてありました。

 『天にいます父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちないほどにわたしを守って』くださるのです。

 これが、生きるにも死ぬにもただ一つの慰めなのです。五十前後から、父なる神がお許しになられて、髪の毛が、一本一本と抜け落ちて、昔日の観なしです。頭は薄くなっても、「保護」されて今日も生かされています。

 『実に万事がわたしの益となるように働くのです。』と続きます。

 贖われ、赦され、義と聖と子とされた私に見舞う全てのこと、歓迎してもしなくても、その全てのことが、「有益」に導かれるのです。もう犯してしまった罪を、口で告白し、謝罪してあれば、記憶からも消し去ってくださるのです。顔にも体にも、古傷や皺やシミが残っていますが、灰汁で白くされる様に、十字架の血で、罪を赦してくださるのです。

 『そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。』と問1の答えを終えています。

 出国時、厦門の税関で、滞在日数を超える「不法滞在」で、取調室に呼ばれました。その公安警察の取調官の前で、『今回は見逃し次回には処分!』とある「処分書」に sign しました。中学の頃から、何度も「始末書」を書いて提出してきた私は、中国公安にも提出したのです。負うべき科料を免除され、再入国を許可されたのです。聖霊は、無罪の証書に証印を押してくださり、天国の入国管理官が入国許可をくださることでしょう。それまでの日々を、喜んで生きる様に、祝福していてくださるのです。

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夢と幻と理想

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 お気に入りの Parker に、” HOKKAIDO UNIVERSITY “ と印字されていて、卒業生でもないのに、私は着用しています。この大学の前身が、「札幌農学校」でした。広い構内に、開学当時の建物も残っていて、明治を感じさせてくれるのです。その学則は、

 "Be gentleman/紳士たれ!

 その札幌農学校の第一期生の大島正義健が、次の様な文章を残しています。

 『さて札幌農学校がいよいよ開校になって、その学則をいかに定めるかということが問題になった際、札幌学校から移って來た生徒たちが、参考のためということで札幌学校の規則書を持ち出し、第一條何々、第二條何々とその大要を英訳して、クラーク先生の前で読みあげた。聞きおわったクラーク先生は、「そのようなことで人間がつくれるものか。」と大声で怒号し、「予(よ)がこの学校に臨む規則は、Be gentleman! たゞこの一言に盡きる。」と言って、特徴のある太いまゆをぴくりと動かされた。

 学校は学ぶ所であるから、起床の鐘が鳴ったら、寝床をけって起きなければいけない。食卓へつく時にはあいずをするから、直ちに集まって來なければいかぬ。消燈時刻にはいっせいに燈火を消さなければいかぬ。ところでゼントルマンというものは、定められた規則を嚴重に守るものであるが、それは規則にしばられてやるのではなくて、自己の良心にしたがって行動するのである。故にこの学校にはむずかしい規則は不要だと、先生は述べられた。それを聞いた学校の幹事や敎授連は大いにその結果をあやぶみ、もし故意に規律を守らない者が現われたらどうなさるおつもりかと反問した。ところが先生は威儀を正し、「たゞ退学あるのみ。」と答えられた。

 さて、クラーク先生の意思を傳え聞いた生徒たちは非常に喜んだ。われわれはこれでもゼントルマンである。ゼントルマンは俯(ふ)仰天地に恥じざる行いをしなければならないと、みずから問うてみずから答え、町へ出てもみにくい行爲は決してなさず、自己の行動に非常に重きをおくようになった。もし誤って校規を犯そうものなら、進んで学監のところへ届け出で、「たゞ今かくかくのことで五分間遅刻いたしました。」と申し立てるような氣風が全校を支配し、学生一般の風紀が非常に改まった。

 クラーク先生が札幌に敎鞭をとられて最初に試みられた事項は、開校の際の演説中に片鱗(りん)が現われている制欲に関する考えを実行に移すことであった。先生は日本の学生の堕落して健康を破る者多き最大原因は飲酒と喫煙にありと断じ、学生の德育ならびに体育上きわめて重要なのは制欲の一事であると考えられた。そこで禁酒禁煙のほかに瀆(とく)神誓言を禁ずる誓約文を起草して、まずみずからこれに署名し、ほかの敎授学生をもこれに加盟せしめて、校内を淨化することに全力を盡くされた。 

 東京英語学校から轉校して來た生徒の一番年長であったのが佐藤昌(しょう)介で、当時は二十歳前後であったろう。伊藤一隆と私とがともに安政六年生まれの十七歳、そのほかの者も似たりよったりの年齢であったから、分別盛りの靑年であったように思われる第一期生も、実はわずかに少年期を過ぎたばかりの若輩ぞろいであったといってよいのである。』

 これは、「クラーク先生」と言う回顧録の一部です。ほとんど十代の後半の学生に、クラークが望んだのは、『紳士たれ!』の一言だったのです。そして多くの第1期生や後輩たちは、自分の人生を、《紳士》として生きたのです。


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 そこで学んだ人の中に、北海道大学の学長になった佐藤昌介がいました。この方は、札幌の街づくり、北海道の発展に大きく貢献した人だったのです。第二期生の内村鑑三は、多くの若者に生きる道を示し、同じく新渡戸稲造は、国際連盟の次長として、国際社会で活躍し、後年は、教育界で貢献しています。

 若い頃の新渡戸稲造は、盛岡藩藩士の子で、気性が激しく、農学校入学直後は、教授と論争になると熱くなって、殴り合いになることもあったほどだったそうです。それで、「アクチーブ(アクティブ=活動家)」いうあだ名がついていました。

 ところが上級生たちからの信仰上、心霊上の感化で、性格が一変して、学校で喧嘩が発生すると、間に入って仲裁するほどに変わってしまったのです。その時に培われた気質は生涯変わらなかったそうです。クラークの<申し子>の様に、紳士然となったのですから、切っ掛けがあると、人って変わるものなのですね。

 幕末に生まれ、新生日本の開化の中で、大自然の中で、聖書と農学を学んだ青年たちが、新しい日本の礎石になっていったのです。北大の校内を家内と一緒に散策した時、150年前の学生が、夢と幻と理想を将来につなげて生きていく備えをしたのです。家内と構内を散策したのですが、北国のポプラやニワウルシの林の中に喫茶店がありました。薫るコーヒーが苦味と相まって、そんな札幌農学校の明治の雰囲気が感じ取れたのです。

(北大構内、エルムの森喫茶店です)

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TOYOTA

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 応用工学を学んだ人の思考というのは、社会科学を学んだ人とは違うかも知れません。その工学の学びを、実社会でも活かして研究を継続し、論文を書き、その業績は表彰され、工学博士号も取得した方が、自動車事故を起こしました。

 同じ様な研究者たちが、自動車を製造開発するために研究をし続けています。工学の世界でも、自動車の世界は花形の部門で、Nicolas-Joseph Cugnot が最初の車を作った時から、今では、無人運転ができ、空を飛ぶこともできるほどの機能を持つ車まで出現し、その精度は、さらに高度化しています。

 世界で最高で、最多の車を送り出してきた会社が製造した車、その車の性性を評価して、安全に運転できると結論して購入し、運転してきた工学博士が、『私の過失ではなく、車に欠陥があって事故が起きた!』と、事故後の裁判の弁明陳述をしています。応用工学を学んだ人の弁としてはおかしな結論です。

 いろいろな会社の車に乗ってきて、今は車を持たない私は、乗りたかった車もありましたし、名のある欧州車も、中国製の車も運転したことも、乗せていただいたこともあります。そんな所有歴と運転歴からしますと、その TOYOTA 製の車は抜群に良い車だったと思っています。

 数学、とくに幾何学が好きで、機械いじりをしては家中の機械を分解していたほどでしたが、その世界では生きることなく、今を迎えていますが、それでもただ感情的に物事に応答するだけではなく、工学的に、物理的に物事を見る目は、まだありそうです。

 そもそも機械を操作する機敏性が衰え、操作性の鈍化を知っているのに、加齢が原因であると認めず、鉄の塊の車を動かして、事故を起こし、車のせいにしてしまうのは、博士号を返上しなくてはならないのではないでしょうか。何よりも、二人の人の命を奪い、何人もの方に傷を負わせているのに、自己の責任を感じていないのが、不思議なのです。

 生きた人間を扱わないで、命のない物質に触れ続けた結果の人間観、生命観を持ち続け、社会の道義の外にいるのは、もっともなのかも知れません。ところが、車を製造販売した責任者は、この事故に、次の様に語っておいでです。

 『自分たちが製造したクルマが関わった事故により、大切な命とご遺族の方々の幸せな日常までもが一瞬で失われたという事実から決して目を背けることなく、こうした悲しい事故がなくなるよう、今後とも安全で安心なクルマの開発に全身全霊をかけて取り組んでまいります。

 トヨタは、重大な事故や事案などの発生時、当局からの要請の他、お客様からのお申し出に対し、きちんと車両の技術面を調査するための仕組みをすでに運用しております。今後もしっかり対応してまいりたいと思います。

 これからも皆様に安心してお乗りいただきたいとの思いも含め、クルマ社会に関わる全ての皆様と一緒になり、安全で安心に暮らすことができるクルマ社会の実現に向けて、引き続きあらゆる努力を続けてまいります。(朝日新聞)』とです。

 工学を学んだ者が自己弁護に終始し、学びをこの社会に形をもって貢献してきた自動車会社とは、これほど違いがあっていいのでしょうか。

(TOYOTAの原点・豊田佐吉の織機のイラストです)

 

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悲しみ

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 25歳の若者が、大胆な発言をしました。1966年3月のことです。そう言ったのは、” The Beatles “ のジョン・レノンでした。 

 『キリスト教は逝っちゃうだろうね。議論の余地はないね。僕は正しいし、僕が正しい事は証明されるさ。今やビートルズはイエスより人気がある。ロックン・ロールとキリスト教、どちらが先に逝っちゃうかはわからないけどね。イエスは、まぁイケてたんじゃない?弟子たちはバカで凡人だった。僕に言わせれば、ヤツらがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたのさ!(ロンドンイブニング・スタンダード紙)』  

 1960年、” Liverpool(リヴァプール)で活動を開始し、世界中の若者を歓喜させた若者たち四人の Rock  group の chief でした。やがて、仲違いがおこり、1970年には解散してしまいます。大胆と言うよりは、随分と高慢なことを言ったものです。これって若者の言質(げんち)としてはよくあることです。後になって、その発言は言い過ぎたことを、彼が認めています。

 彼は、1980年末に、ニューヨークで、暴漢によって射殺されてしまいます。演奏活動を始めて20年、40歳での死でした。確かに有名になりましたが、そのわりには幸せ薄い人生だったのではないでしょうか。あのキリスト発言と射殺事件とは結びつける必要はありません。だれもが死ぬからです。

 言い知れない「悲しみ」があって、豊かな生活や、有名になっても、華やかそうに見えても、人の心の中から消えることがなさそうです。私は、青年期に、このBeatles に、全く関心がありませんでした。Rock  music も好きではなかったのです。華やかさや激しさやにこやかさの背後に、何かが隠れていそうで気になったのです。隠せられない「悲しさ」に違いありません。それもあって、あの様にキリストを誹謗したのではないでしょうか。

 『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書533節)』

 生きるって、楽しいことや喜ばしいこと、お祝いしたい様なことがある反面、「悲しみ」の方が遥かに多そうです。大人になるにつれ、父や母の中に、それらが隠されているのが分かったのです。戦時下に生を受け、物のない時代に育ち、病み、痛み、何度も手術を受け、苦しんだ日を数えた方が遥かに多い自分でもあります。

 私生児として旅の途中で家畜の傍で生まれ、死者を包む布で産着を着せられ、権力者に追われ、片田舎で育ち、大工を生業とする養父に育てられ、自らも大工として生き始め、養父なき後は母や弟妹の世話をした、そんな過去を持たれ、「悲しさ」を知っておられる方が、私を、死と恐れと刑罰とから救い出してくださったのです。

 『わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。(詩篇221節、マルコ1534節)』

 ただ、十字架につかれ死なれる直前に、そう言われました。救われる人の罪のために、《罪となられた神の御子》と父との間にあり続けた交わりが、突然断たれたことが分かっての叫びでした。罪とされ、汚れたイエスさまを、聖である父なる神は直視できなかったのです。その「悲しみ」があっての十字架なのです。

 時代と場所の違いはありますが、若い日に、この「悲しみの人」と出会ったのです。「キリスト」と称えられ、33年半の短い生涯で、私の罪の身代わりに十字架で死んでくださり、だれも経験したことのない復活をされ、今や父なる神の右の座に、生きて着座されている「救い主」なのです。「悲しみ」を知っていてくださる「理解者」、ご自分が、人として悲しまれたので、悲しむ人が理解できるのでしょう。そんな私のための「激励者」、「同行者」、やがて執り成してくださる「弁護者」なのです。

 自分の「悲しみ」の分を抱えながらも、「悲しむ人々」の間にありながら、それに押しつぶされたりしないで、自分に定められた日を生きています。どんな星の下に生まれたとしても、悲しみの現実に押し潰されないで生き抜いた母がいました。14で出会った神の御子を信じ続け、夫のために、産み落とした四人の子どもたちのために、祈り続けた母でした。

 実は救い主が誕生された時に、天には溢れる様な賛美が満ち溢れていました。凱旋の将、万軍の王を、御使たちは宇宙を震わせるほどに崇め、讃えたのです。十字架上で贖罪の業を終えられ、死から蘇られた時には、さらなる賛美がありました。今も、天には賛美が溢れています。母も賛美した人でした。イエスさまは、ジョン・レノンの言葉に代表される様に、誹謗されたり中傷されたり、悪口雑言を言われて悲しむことはありません。そういう人のご自分への不理解を悲しまれたのです、罪に翻弄され続ける人をご覧になって、今も「悲しむキリスト」なのです。

 

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義、憐れみ、謙遜

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 『 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ68節)』

 ここに、神さまが、人に求められたことが三つ挙げられています。 

 1.義を行い to do justly

 自分の損得だけを考え、求めて生きている人間に、真に人が生きるのは、「義」とは何かを知り、それを行うことだと、神さまは預言者ミカを通して言われたのです。

 「義」とは、漢字で「羊」と「我」の合成字です。私を教えたアメリカ人宣教師は、このことを知っていたのです。人は常に「不義」であって、神さまだけが「義なるお方」だと教えてくれました。まさに、人が「義」とされるのは、「我」である私が、「義」である神、十字架の上で「義」とされた神、神の子を戴くこと以外にありません。パウロは、次の様に記しています。

 『しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。 (ガラテヤ216節』

 人が「義」とされるには、二つの方法があります。「律法(モーセの十の戒め)」を完全に守ることによって、神のみ前で、人は「義」とされます。しかし、誰一人、遵法者はいませんでした。それで、もう一つの方法を、神が定められました。十字架の上で、ご自分を捧げて、「神の義」を満足させて、身代わりに死んでくださって、「義」とされた神の御子キリストなるイエスさまを信じる、「信仰による義」を定めてくださいました。

 このことが私にも分かったのです。神の前にも、誘惑者の前にも、この社会の前でも、自分が、「義」とされたこと、同時に「聖」とされたこと、さらに「子」とされたことを信じて、今日まで生きて来れました。その確信は揺るがずに今も、その立場の上に立っています。「義」を愛し、行える様な生き方を願いつつあります。

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2.憐れみを愛し 
to love mercy

 生まれながらの人は残忍です。私は、まさに残忍な人間でした。人の幸福や出世を妬んだり、不幸になってしまう様に願ったりして生きて来ました。何事も自己中心的でした。「憐れみ」Free Graphic Resource for Children’s Ministry Leadersに満ちたイエスさまを信じてから、「憐れみ」の思いが与えられて、他の人の幸せや健康や出世を喜べる様になったのです。社会的に弱い立場にある人を蔑まなくされました。心に中に、キリストが住んでくださった以外に、この変化を説明できません。

 人の不幸や瀕死な状態、滅びようとしている人を見て、腸が捩れる様な同情心や憐憫を、イエスさまは内に宿しておいでです。神以外に持つことのない思いです。あの強盗に襲われた旅人を、また放蕩息子を家に迎えた父親の様に、「かわいそうに」思う思いのことです。私には安っぽい同情心p、自分を誇る様な思いしかないのに、その「かわいそうに思う思い」を知ったのです。創造者にしか宿らない思いです。万分の一でも、そんな「憐れみ」の思いが与えられたいと願って、今も生き様としています。

 3.  謙って神と共に歩む to walk humbly with God

 およそ自分ほど、高慢な人間はいないと思います。人に褒められたくて、高く評価されたくて、社会的に高い立場を認めて生きていました。ところが、人の歴史に現れてくださったイエスさまが、「謙遜な僕」であることを知ることができたのです。

 『打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。(イザヤ書506節)』

 『・・・彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書5323節)』

 この様な33年半の生涯を生きられて、十字架に死なれたお方を、「キリスト(救い主/贖い主/弁護者/慰籍者)」と、25歳で信じられたのです。聖霊なる神が、その理解を私にくださったの時にです。それ以来、「謙遜さ」が何かを学びながら、変えられながら生きて来ました。今も、謙遜でありたいと願いつつ生きていこうと願っています。

 不義、憐れみの心のない、高慢な自分を知って、誰一人として裁くことのできない自分が、ここにいます。でも義を愛し、憐れみ深く、謙って、万物を創造され、統治される神のみ前に、人々の間で生きたいと、今朝も願っております。

(”Free Graphic Resource for Children’s Ministry Leaders“から)

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 1941年に、作詞がサトウハチロー、作曲が仁木他喜雄で、「めんこい仔馬」が、「馬」という東宝映画の主題歌として発表されています。

1 ぬれた仔馬のたてがみを
  なでりゃ両手に朝のつゆ
  呼べば答えてめんこいぞ オーラ
  かけていこうかよ 丘の道
  ハイド ハイドウ 丘の道

2 わらの上から育ててよ
  今じゃ毛なみも光ってる
  おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
  元気に高くないてみろ
  ハイド ハイドウ ないてみろ

3 西のお空は夕焼けだ
  仔馬かえろう おうちには
  おまえの母さん まっている オーラ
  歌ってやろかよ 山の歌
  ハイド ハイドウ 山の歌

4 月が出た出た まんまるだ
  仔馬のおへやも明るいぞ
  よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
  あしたは朝からまたあそぼ
  ハイド ハイドウ またあそぼ

 父は自家用車は持ちませんでしたが、戦時下に、「馬」を持っていたそうです。父の事務所のあった街の連隊の連隊長が、『ぜひ譲って欲しい!』と願ったほどに、その馬は「駿馬」だったそうです。街中と軍需工場のあった村との間を通うために、その馬が飼われていました。

 ある時、馬の世話をしていた方の子どもさんが病気になって、滋養のある食べ物を必要としていたのだそうです。その人は、なんと父の馬を潰して、肉にしてしまいました。父は知らずに、その人の届けた「馬肉」を食べてしまったそうです。せめてもの罪滅ぼしにと、そうした彼を、父は、わが子を思う彼の「父の愛」に免じて、不問に付したと、私が生まれる前の話を母に聞いたことがあります。

 だからでしょうか、晩年の父が、ごろっと炬燵に横になりながら、この「めんこい仔馬」を歌っていたことがありました。戦後、詞が書き換えられていますが、父が歌っていた歌には、軍事色が漂っていました。きっと自分の愛馬を思い出し、戦時中に、流行っていたこの歌を口ずさんだのでしょう。

 その父も六十一で亡くなり、父の逝った年齢を十五も超えてしまっている今の私は、時々アルバムに父の五十代の写真を見ることがります。父より老けた自分の顔と見比べて、やはり、似ているので苦笑してしまいます。その父の数少ない愛唱歌の一つでした。

 在華中に、そんな父が青年の日にいた瀋陽(父は「奉天」と言っていました)を訪ねる計画を持ちながら、帰国してしまって、その願いを叶えられませんでした。今でも、父を思い出しながら、私も、そっと口ずさむことがあります。その父のいた街から、天津にやって来て、名門大学で学んでいた学生が、時々遊びに来ていました。住む家がなくて、二、三ヶ月私たちに家にいたこともありました。

 そう言えば、最初に中国に出掛けた時、内モンゴールのフフホトで、馬に乗ったことがありました。どうも乗る前に、私の顔を見た、その馬が、『フン!』と言った表情を見せたのです。案の定、乗せようとしないので、馬丁に乗せられたら、今度は動こうとしないのです。尻を思いっ切り鞭されたら、嫌々動き出したではありませんか。あれ以来馬に乗っていません。

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踏切番

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 戦争が終わって、父の仕事が一段落して、東京に出てきて住んだ家は、八王子にありました。そこに一年ほどいて、また引っ越しをしたのです。その家は、中央線の踏切から50mほど、旧甲州街道を上った辺りにありったのです。その踏切に詰めて、その開閉をする「踏切番」の方がおいででした。人力で上げ下げをする時代でしたから、興味津々の弟と私は、その手伝いをさせてもらったことがありました。その踏切番のおじさんは、弟を気に入って、家に呼ばれて弟はお邪魔したりしていました。

 この方が、「八王子千人同心」の家系で、千人頭を代々していた家だった様です。幕府直属の旗本の下で、幕臣・御家人として任務を果たしています。江戸に続く甲州街道の守備や整備、さらに日光東照宮に家康の亡骸が改葬されてからは、「日光勤番」を当たり、東照宮の火の番が、主な任務だった様です。

 原家は、甲州武田の武将だったそうで、そのためには、同心たちは剣術も修めていたのです。江戸期には、若菜豊重が、大平山(現在の栃木市)に籠って修行をし、「大平真鏡流」を開き、この流派の剣術を、一部の同心たちは修行をしていたそうです。八王子には、この流派の道場があったのです。

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 八王子から川越を経て、日光例幣使が東照宮詣でに使った街道を行き来しています。忍者の様に早足で、八王子と日光とを行き来していた様で、それほど任務の重要性を理解して従事していたのです。「半士半農」で、武士の鏡の様に、農作業もしていた集団でした。竹製の踏切を上げ下げする動作に、その機敏性や安全さが窺えたほどでした。

 明治維新以降は、解散させられ、農業に従事したり、北海道開拓に赴いた人たちも少なからずいた様です。苫小牧などで、蝦夷地の開拓に従事した同心もいたと言われています。様々な分野で、日本の歴史の中に、その足跡を残していることになります。

 東武宇都宮線の踏切を、散歩の途中で、時々渡りますが、JRも私鉄も、同じ様な警報音を発しながら、自動で踏切版が上下されていて、昔は、そこにも踏切番がいたのでしょうか、今と同じく無人だったのでしょうか。子どもの頃の光景が、懐かしくも目に浮かんでまいります。

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カタカナ再考

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 ある記事を読んでいましたら、カタカナ語を使う理由が、語られていました。その要点は、〈深刻さの軽減〉だと言うのです。事態が厳粛で、深刻なため、その衝撃を緩めるための配慮なのでしょうか、それとも無策を覆い隠すための誤魔化しなのか、最近、文字でも音声でも、カタカナ語の使われ方が多過ぎます。

 自分だけなのかと思いましたら、同年輩の多くの方、さらには若い方たちも、同じ様な印象を持っておられるのです。すぐにピンとこない。辞書を引くにも spell がどうなのかも分かりません。引いてもいくつか意味があって、どれだかが分かりません。

 もうかなり以前になりますが、台湾の教会を訪問させていただいた時に、『お話の中で、カタカナ語をなるべく使わないでいただきたいのですが。』と、日本語教育を受けられた年配の牧師さんに言われたのです。お受けになった英語教育で学んだことと、カタカナ語とつながらないからです。

 日本語になってしまった外来語は、元の言葉から独歩きをしてしまって、発音も意味でさえも曖昧になっていますから、英語を学んだ方には、極めて難しいのだそうです。韓国語も、日本語と同じで、言葉の中に、〈朝鮮語訛り〉の英語が使われているのが聞こえてきます。それに韓国で使われる朝鮮語には、日本語が多く入り込んでいるのです。それは日本統治の影響かと思われますが。

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 外来語をカタカナで表記しますが、「片仮名」であって、漢字を日本語で読むために作られた仮名でした。後に、私用に男性が用い、女性も使う様になったと言われています。一度買ったことがある「六法全書」は、漢字と片仮名で書かれていて、平仮名を使わないのは、法律条項に権威を持たせるためだったのでしょうか。

 この様に、漢字を崩して、カタカナやひらがなを作り出す日本人の創作術には驚かされます。英語だって、日本語化してしまうのは驚きで、アメリカ人が驚いていました。漢字も平仮名も片仮名も、日本語を表記するには欠かせません。英単語も漫画やイラストだって使ってしまう時代です。

 そう、「パンデミック “ pandemic “ 」は、夥しい人が感染して死んだ疫病のことで、コロナや黒死病などのことを言います。また「ジェノサイド ” genocide “ 」は、「大量虐殺」と辞書にあります。どちらも、人を恐怖させる出来事ですが、カタカナで読むと、無学の私には、お菓子の名前の様なのです。実におかしなことです。どうしても深刻さや厳粛さが伝わってこないではありませんか。

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大平山に似合う紫陽花

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 梅雨の合間に、念願の「大平山の紫陽花」を観に、連れて行ってもらいました。29歳の太宰治が、甲斐国の御坂峠の茶屋に逗留した時に、富士を背景に咲く「月見草(これは別の花ではないかとの異説があります)」を見て、霊峰富士にピッタリと似合う花だと詠んだのですが、下野栃木の国の大平山には、この「紫陽花」が殊の外似合っていました。

 人気の景勝地ですから、駐車場には県外車も見受けられ、小さな抱かれた赤ちゃんから年配者まで、人出が多くありました。昨日一昨日と雷雨に見舞われた後、今日の雨上がりの紫陽花は、格別な趣がありました。梅雨時、紫陽花となると、やはり「蕎麦」が相応しいと、昼食は「ざる蕎麦」にし、蕎麦湯をいただきました。今時は、蕎麦が似合う様です。

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