義、憐れみ、謙遜

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 『 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ68節)』

 ここに、神さまが、人に求められたことが三つ挙げられています。 

 1.義を行い to do justly

 自分の損得だけを考え、求めて生きている人間に、真に人が生きるのは、「義」とは何かを知り、それを行うことだと、神さまは預言者ミカを通して言われたのです。

 「義」とは、漢字で「羊」と「我」の合成字です。私を教えたアメリカ人宣教師は、このことを知っていたのです。人は常に「不義」であって、神さまだけが「義なるお方」だと教えてくれました。まさに、人が「義」とされるのは、「我」である私が、「義」である神、十字架の上で「義」とされた神、神の子を戴くこと以外にありません。パウロは、次の様に記しています。

 『しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。 (ガラテヤ216節』

 人が「義」とされるには、二つの方法があります。「律法(モーセの十の戒め)」を完全に守ることによって、神のみ前で、人は「義」とされます。しかし、誰一人、遵法者はいませんでした。それで、もう一つの方法を、神が定められました。十字架の上で、ご自分を捧げて、「神の義」を満足させて、身代わりに死んでくださって、「義」とされた神の御子キリストなるイエスさまを信じる、「信仰による義」を定めてくださいました。

 このことが私にも分かったのです。神の前にも、誘惑者の前にも、この社会の前でも、自分が、「義」とされたこと、同時に「聖」とされたこと、さらに「子」とされたことを信じて、今日まで生きて来れました。その確信は揺るがずに今も、その立場の上に立っています。「義」を愛し、行える様な生き方を願いつつあります。

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2.憐れみを愛し 
to love mercy

 生まれながらの人は残忍です。私は、まさに残忍な人間でした。人の幸福や出世を妬んだり、不幸になってしまう様に願ったりして生きて来ました。何事も自己中心的でした。「憐れみ」Free Graphic Resource for Children’s Ministry Leadersに満ちたイエスさまを信じてから、「憐れみ」の思いが与えられて、他の人の幸せや健康や出世を喜べる様になったのです。社会的に弱い立場にある人を蔑まなくされました。心に中に、キリストが住んでくださった以外に、この変化を説明できません。

 人の不幸や瀕死な状態、滅びようとしている人を見て、腸が捩れる様な同情心や憐憫を、イエスさまは内に宿しておいでです。神以外に持つことのない思いです。あの強盗に襲われた旅人を、また放蕩息子を家に迎えた父親の様に、「かわいそうに」思う思いのことです。私には安っぽい同情心p、自分を誇る様な思いしかないのに、その「かわいそうに思う思い」を知ったのです。創造者にしか宿らない思いです。万分の一でも、そんな「憐れみ」の思いが与えられたいと願って、今も生き様としています。

 3.  謙って神と共に歩む to walk humbly with God

 およそ自分ほど、高慢な人間はいないと思います。人に褒められたくて、高く評価されたくて、社会的に高い立場を認めて生きていました。ところが、人の歴史に現れてくださったイエスさまが、「謙遜な僕」であることを知ることができたのです。

 『打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。(イザヤ書506節)』

 『・・・彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書5323節)』

 この様な33年半の生涯を生きられて、十字架に死なれたお方を、「キリスト(救い主/贖い主/弁護者/慰籍者)」と、25歳で信じられたのです。聖霊なる神が、その理解を私にくださったの時にです。それ以来、「謙遜さ」が何かを学びながら、変えられながら生きて来ました。今も、謙遜でありたいと願いつつ生きていこうと願っています。

 不義、憐れみの心のない、高慢な自分を知って、誰一人として裁くことのできない自分が、ここにいます。でも義を愛し、憐れみ深く、謙って、万物を創造され、統治される神のみ前に、人々の間で生きたいと、今朝も願っております。

(”Free Graphic Resource for Children’s Ministry Leaders“から)

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