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 先週、上の娘とFace timeをしていて、「祖先rootbackground」の話になりました。伯母(家内の姉)から、色々と聞き出したのだそうです。自分と血の繋がりのある父祖たちの足跡を追おうとしているのです。何百年も前に、数千年前に、必ず父祖や母祖がいて、どんな生活をし、何を思いながら生きていたかに、想いを馳せるのは、確かに「浪漫」があります。

 漁や猟や農作物など、食べることだけしか考えていなかったとは考えられません。憎しみや赦しや心配や恐れや感謝や喜び、恋や愛だってあったに違いありません。文字で書き残せなかった思いを想像してみただけで、自分の思いを考えながら、逞しく想像するのもいいものです。

 遠い自分のお爺ちゃんやお婆ちゃんが、どんな人だったのか、知りたいものですが、考古学者や歴史学者たちが、名付けた「縄文人」や「弥生人」は、自分がそんな括りの中で呼ばれるなどと考えてしなかったことでしょう。けっこう母系社会で、お婆ちゃんが家や、部落をやり繰りしていたのではないかな、と思うのです。お爺ちゃんを立てながら、実力者はお婆ちゃんだったのでしょう。

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 お爺ちゃんは、狩や猟で、疲れ果てて、神経も身体もすり減らしてしまって、短命なのに比べて、どっしりして受け身で生きてきたご婦人たちの方は、長生きだったに違いありません。この街だって、お婆さんたちばかりが元気です。おじいさんたちは、公園の隅のベンチに座り込んで、何かショボショボと思い出話や、自慢話をしている様に見受けます。そんな中に入りたくありませんので、チラッと見て素通りの私です。

 きっと孫世代は、『家で1番の実力者、わが家の幹事長はお婆ちゃん!』と思っているに違いありません。縄文時代だって、新石器時代だって、そうだったろうと想像してしまいます。

 『きっとわがお爺ちゃんは、渡来人だったに違いない!』、『南方から渡ってきたお婆ちゃんと出会って一緒になったに違いない!』と想像しているのです。百済あたりから、済州島や五島列島を経て九州か山陰に辿り着いたお婆ちゃんの祖先の末裔なのだろうと思うのです。少々エキゾチックな南方系のお爺ちゃんに魅せられて、一緒になったのです。その子孫が、母で、イルクーツクあたりから渡り住んでいた大陸人の末裔の父との間で、この自分が生まれて、今北関東の下野国、栃木に住んでいるのかな、って想像しています。

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 将来のこと、世界のこと、神の国のことも考えつつ、晩御飯のおかずのことも、どこに散歩しようかと考えています。もちろん新型コロナのことも、家族のことも考えています。ですから、わが先祖たちは、原っぱに寝転がって、浮かんでる雲がパンにしか見えなかったとは思えません。もっと崇高な思想をしていたに違いないのです。子孫の繁栄や平安を願っていたことでしょう。

 もう一つの可能性は、イスラエルの「失われた十部族」が、大陸を東に進んできて、島伝いに舟で、大陸からこの列島にやって来て、住み着いたと言う件です。現代のユダヤ人たちも、『日本からもシオンへの帰還者があってもいいのだが?』と思っている人がいるそうです。『自分は、どの部族に属しているのかな?』と思うと、聖書の中に、自分のroot がある様な気がして、浪漫と信仰が駆り立てられます。

 娘は、自分の祖先が、北方民族だったかも知れないと聞き出したそうです。北から南から、大陸から、さまざまな道筋で、この日本列島に住み着いて、文化を築いて来たのでしょう。私たち日本人は、単一民族だと誇ったのですが、実際は、雑婚して来たのでしょう。ある表情は、南方系だったり、北方系だったりですから。

(高松塚壁画、百済人、三内丸山遺跡の復元図です)

 

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紫陽花

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※ 写真をしばらく指で押していると大きく拡大します!
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 紫陽花やきのふの誠けふの嘘   正岡子規

 下の息子から、紫陽花の花の写真が送られて来ました。まだ関東地方は梅雨入り前なので、もう一つ気分が沿わないのですが、そう思っていたらパラパラとにわか雨でした。学校からの道に、この「あじさい」が咲いていて、あの感じ、あの光景が目の底に残っているいるのです。

 色変わりをする紫陽花は、子規には、嘘つきの様に感じられたのでしょうか。天気だって、梅雨の間には変わりますし、人の心も変わるのでしょうか。

 ここ栃木の大平山の石段には、2500株もの紫陽花が咲くと、この2年聴き続けて来ましたが、今年は観に行けるでしょうか。華南の街からバスに乗って、時々山に上がったのですが、終点近くに、この季節でしょうか、紫陽花を懐かしく見つけました。今も咲いているでしょうか。

 ちなみに中国語では、「繡球xiu qiu」と言います。日本語の由来には、幾つもの説がある様で、「難読漢字」の一つですね。ここまで書いていたら、雷鳴が聞こえて来ました。これでも梅雨前なのでしょうか。(30日16時記)

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万歩計

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 現代人が健康を損ねて、体を壊してしまい、病気にかかりやすくなったからでしょうか、治療で一喜一憂する一方で、「健康法」が、現代人を捉えています。そこで昨年暮れに、市が援助してくれる一斉検診に申し込みました。2件の精密検査結果の連絡がありました。今回は、無視しないで、大きな病院がいいだろうとのことで、獨協医科大学病院に、消化器系内科と血液循環器内科で診てもらいました。

 胃は、〈今のところ癌の兆候は見られない〉が、「ピロリ菌」があるので、その駆除をするということで、薬を1週間飲みました。来月、その結果が出ることになっています。もう一つ、糖尿病の恐れがあるという検査結果で、葡萄糖液を飲んで、三十分おきの血液の血糖値検査をしました。その結果、予備軍が〈本物〉になってしまったのです。医師から、『魚中心の食事と8000歩以上の散歩をする様に!』と言われたのです。

 予約日に、少し早めに着いて、駐車場脇の花に水遣りをされていた医師に挨拶をしましたら、それをやめて、裏口から医院に入って、玄関の施錠を外し、カーテンを開けて、テレビまでつけて招き入れてくれたのです。さらに待合室で待っている患者の私を、ご自分の診察室の椅子から立って、入り口に来て、名前を呼んで招き入れてくれたのです。そんなことをする医者に初めて会って、『この医者に任せよう!』と決めたのです。

 それで、食べ物に注意し、散歩を続けて、先週、1ヶ月後の診察に行き、血液検査をしていただき、その結果が出たのです。『この数値で糖尿病ですかね?』と、数値表を見て嬉しそうに言われたのです。『帰りに、結果がよかったら、カツ丼を買って帰ろう!』と思っていましたが、子どもっぽいことはやめにしたのです。その日の散歩を、コースの総合運動公園まで足を伸ばしてこなして、家に帰ったわけです。

 最も原始的で、第一次的な運動は、《歩くこと》なのだそうです。もう一つの心臓が、足の裏にあるほどに、人は作られているので、それが一番なのです。そう言えば、広告に、「健康法」を謳ったものが、山ほどあります。” supplement “ 、「運動法」、「健康食品」は、驚くほど多彩です。私は、これまで注意しててきたことがあります。

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 一つは、同じ物ばかりを食べないことです。なるべく多くの種類の食べ物を摂ることにしています。ユダ人の食物規定は、尊重しますが、それに縛られません。なるべく、それに近いものや調理方法で食べています。野菜を最初に食べること、20回噛むことを、勧めめられました。飲酒喫煙は、25でやめましたが、時々葡萄酒を飲みたい時がありますが、酩酊の過去がありますので、99%飲むことはありません。

 好きな花林糖や大福も、買いたくなりますが、昨年来食べていません。でも、たまに〈ごほうび〉をと思いますが、ズルズルと後戻りの可能性を予測して、注意しています。厳しさとゆるさで生きていると言ったところです。万歩計の規定歩数を達成したかを気にしながら床について、新しい日を迎える毎日です。京都の若い友人や弟から、色々と教えられていて感謝しています。今日は、どのコースを歩こうかな、の朝です。

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名月

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昨夜、次男から送信されてきた「Super moon」の映像です。なんと神秘的ではないでしょうか。太陽の光を受けて輝く月、地球が影になっている様子は、絵にも言われないほど「皆既月蝕」は美しいではありませんか。

天空に浮いている月も、太陽も、地球も、だれが創造し、だれが支えているのでしょうか。ここ北関東では、雲が遮って見ることが叶いませんでした。でも写真を見て、圧倒されてしまいました。

こんなに美しい天体を、人の欲で汚したくありません。そっと眺めて満足していたいものです。

 

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同胞

Moses found in basket on river Nile in ancient Egypt by Pharaoh Seti´s wife Queen Tuya
Original edition from my own archives
Source : Biblische Geschichte 1882

 1978年頃だった思いますが、「かぐや姫」が歌った、「おまえが大きくなった時」と言う歌がありました。

おまえが大きくなった時 あの青い空に
白い紙飛行機が 夢を運ぶだろうか
おまえが大きくなった時 あの枯れた大地に
咲いた名もない花が 命を語るだろうか
ごらん あの街を あかりが揺れてる
おまえのあたたかい この手を握りしめれば
ああ 聞こえる ふるさとのうた

おまえが大きくなった時 このビルの谷間に
やさしい唄が 流れているだろうか
おまえが大きくなった時 この灰色の窓辺に
沈む夕陽が やすらぎをくれるだろうか
ごらん あの街を あかりが揺れてる
おまえのあたたかい この手を握りしめれば
ああ 聞こえる ふるさとのうた

おまえが大きくなった時 この小さな胸に
確かな喜びが 育っていくだろうか
おまえが大きくなった時 この手のひらに
愛する心が 通い合うだろうか

 この歌詞の中には、「親心」が歌われていて、子の将来への祝福を歌ったのでしょう。『這えば立て、立てば歩めの親心!』で、両親に期待されて、私たちは大きくなったのです。ところが、世界史の中に登場する人たちの中に、片親だったり、両親を幼くして亡くしたり、どうしようもない事情で捨てられたりした人が、けっこういるのです。世界の歴史に大きな影響力与えた人に、そういた事例は少なくないと言われています。

 子どもが健全に成長するために、《両親のいること》、しかもしっかりと《親業を果たすこと》が、必要であると、児童心理学者は言います。その欠損家庭で育った子は、精神的だけではなく経済的にも社会的にも、厳しい中を成長していかざるを得ません。

 一人の同級生が、自分の幼い日を語ってくれたことがありました。叔父さんたちも兵学校や陸軍大学を終えていて、お父さんは職業軍人だったのです。彼のお父さんは、中国大陸で終戦を迎えたのですが、大隊長などは、どさくさに紛れて飛行機で帰国してしまったのです。彼のお父さんは、残務整理を命じられ、中国の内陸部に残ったのだそうです。結局、部下を帰国させると言う約束を取り付けて、お父上は自害をしてしまいます。

 戦後、九州の母方の里で、彼は育って、お父さんが残した軍帽をかぶって、チャンバラ遊びをして過ごしたんだと言っていました。意志の強い、キリッとした表情で、空手をやっていました。きっと日本が軍国主義を続けていたら、彼もまたお父さんの道に進んでいたのではないでしょうか。

 でも彼は青年期に、アメリカからの婦人宣教師との出会いで、信仰的な感化を受けています。結婚式に呼ばれ、呼んだ友人ですが、その後没交渉になってしまいました。立派にお姉さんと彼を、お母さんは育てたのでしょう、男っぷりの好い男でした。往々にして、家庭に恵まれない子は、精神的な不足や欲求不満や不安があって、権力への意志を目覚めさせ、世界変革のようなことをするのだそうです(ポール・トウルニエ著「苦悩」から)。
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 そう言った背景を持つ人として、モーセ、ジュリアス・シーザー、マホメット、ナポレオン、スターリンなどの名が、「苦悩」の中で、取り挙げられています。確かに不足や欠陥などが、人をあることに駆り立てることがあるかも知れません。エジプトの王女にナイル川から拾われ、王宮で育ったモーセが生きた一生は、正常ではありませんでした。でも、イスラエル民族を、奴隷の家から連れ出す、解放者としての役割を担って、神と同胞に仕えたのです。

 「こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。 (出エジプト211節)」

 同胞を顧みる心を沸き上がらせたのは、モーセの父祖の神、アブラハム・イサク・ヤコブの神なのです。アブラハムが、40歳になった時を、「おとなになったとき」と記しています。虐げられている同胞を助けようとして、殺人を犯してしまいます。その後の40年を荒野で過ごし、80歳になった時に、民族を滅亡から救い出す救出者の任務を果たし始めるのです。それをし終えたのは120歳になっていました。

 私にも同胞への思いがあります。でも一つ間違えると、モーセの様に、その思いが強くなり過ぎて、罪を犯しかねません。感情だけではなく、「分別」が必要です。きっと、「大人になる」とは、その分別を持ち、正しく判断をすることなのでしょう。同胞も、隣国も、同じアジア圏も、いえ全世界が、「コロナ禍」の窮状の中にあります。自国のことばかりに汲々として、他者、他国を顧みない傾向が強いのです。今は、世界大の正しい隣人愛が求められている時代に違いありません。

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歴史に学ぶ

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 戦時下、男の子を3人(弟は戦後の生まれです)を産んだ母は、さながら、表彰されるほどの「軍国の母」であって、私たちは「天皇の赤子(せきし)」として、その誕生を祝福されたのではないかと思うのです。なぜなら3人は、兵士として国に仕えることができたからです。私たちが生まれたのは、戦局が拡大し、抜き差しならない敗色濃い状況下で、軍備の増強もならない、戦局の異常なほどの拡大の中、随分と無茶な戦いをしていた時代でした。

 それは日本だけのことではありませんでした。人類史上、あれほどの憎悪を、一民族に向けて放ち、それを絶滅させようとした、ナチス・ドイツのしたことも、驚くべきことでした。第一次大戦で負けたドイツは、ゲルマン民族の誇りも砕かれ、想像を絶する戦争責任を要求され、極度のインフレの経済危機に見舞われていました。そこに、「ナチス(国家社会主義ドイツ労働党)」が台頭し、政権を握ったのです。反ユダヤ主義、反共産主義を掲げていました。

 まるで悪魔がかったヒトラーの劣等感や被害妄想に裏打ちした国家統治と隣国侵略は、だれもやめさせられませんでした。私たちが歴史を学ばなければならないのは、二度と同じ過ちを犯さないためです。正しい目で、歴史の中に起こった事実を見直す必要があるからだと、今も思われています。

 ドイツ人の優秀性を誇示した彼らは、熱狂的な支持をドイツ国民から受けたのです。戦争が終わって、ある秘密が露わにされています。ヒトラーに次ぐ立場を持っていたヒムラーは、優秀で純血なドイツ国家を作るために、「Lebensborn(レーベンスボルン/生命の泉協会)」の立て上げを提言して、受け入れられ、それを実行したのです。「Aryan(アーリア人)」による国家建設を目論み、白人の未婚女性を母親に、ナチスの優秀な将校を父とする出産計画を立て上げ、実行します。

 その結果、実数は確かではありませんが、10万人もの「ナチスの子どもたち」が誕生したと言われているのです。国家的意図で生まれてきた子どもたちの悲劇は、想像に絶します。命の分野に、人が立ち入ってしまう時、悲劇が起きてしまいます。ユダヤ人を殺戮したことと、アーリアンの子どもたちを産んだことは、彼らの犯した重大な犯罪でした。だからでしょうか、ナチス支配に鉄槌が降って、終わったのです。

 私は、高校の時にハンドボールをしました。この球技の誕生は、諸説ありますが、その一説は、ドイツ人女性の体を強くし、丈夫な子を生む母体を作るために考え出された種目だと聞いています。それにナチスの目論見に近いものを感じますが、1936年のオリンピック、ベルリン大会の競技種目になっているのです。

 また、戦時下で、三国同盟に加盟した日本、日本人は、ヒトラーによって「名誉アーリア人」だと認定されたのです。鼻が低くて、ちっと歯の出加減の私を見て、だれも「アーリア人」だなんて、私に向かって言ってくれた人はありませんでした。戦時下の異常な時代に誕生した私には、戦後、自分がだれであるかを見出せないまま生きてきた、同世代の「ヒトラーの子どもたち」が、いつも気になっていたのです。

 戦争の悲劇、人の野望の結末というのに、今さながら驚かされます。朝鮮戦争で孤児になった少女が、猫の様に肥大化したネズミに襲われて、仲間が死んでいく様子を見ながら、恐怖と飢えと逃走の中を生き抜いた女性がいました。アメリカ人宣教師に救出され、愛ある家庭で育ち、私の知人の宣教師の息子さんの奥さまになっておられる女性から、そのお話を聞いたことがありました。

 この時代に生きる私たちが切望することは、「平和」です。少なくとも、一人一人に人の心の中に、「平安」が宿ることです。どんな状況の下にあっても、人の心の中には、武器を持った兵隊が入り込んでくることはできないからです。歴史を支配される《神との平和》のことであります。

 

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立派

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 日本占領下の韓国の大邱市(テグ)の大邱中学校に、梅原圭一という若い英語教師がおられました。東京高等師範(現在の筑波大学です)を出立てで、学生にとても人気のあった教師でした。ある日の授業で、一人の学生が黒板に、悪戯書きをしたのです。梅原先生は、その日も足取り軽く教室に入って来ました。それを見た先生は震えて、『僕が君たちに何か悪いことをしたのか・・・』と言って、教室から出て行き、二度とこの学校に戻りませんでした。1942年のことでした。

 この悪戯書きは、先生が朝鮮籍で「崔(チェ/さい)」という名であることをからかう内容でした。こう言ったことは、朝鮮半島や中国大陸に住む人や出身者に、占領下でも、今でも、日本人がよくしてきたことなのです。そう言ったことが、《反日》の背後に、占領や侵略以外にあったことを、現在の私たちは知っておかなければなりません。この梅原先生は、旧満州の学校で学び直され、戦後は韓国の政界で活躍されたのです。

 後に、首相をされ、朴正熙大統領が暗殺された時に、大統領代理をし、後に第10代の大韓民国大統領にもなっておられます。ただ厳しい政変のある国情ですから、一年に満たない在任期間で退陣されています。ところが歴代大統領の中では、最も評価の高い方なのだそうです。どうしてかと言いますと、醜聞(しゅうぶん)が皆無だと言われています。

 東アジアは、人脈や派閥などの強い社会でして、ある人が指導の地位に着くと、親戚縁者や友人や縁故のある人々が、その人の周りに群がって来て、「役得」に預かる傾向が強いのです。ところが崔圭夏大統領は、そう言ったものから遠ざかっておられ、まったくの清廉潔白(せいれんけっぱく)な人でした。奥さまが病弱でしたので、どんなに重い責務や政務を負っていても、常に妻に寄り添う夫であったそうです。立派な方でした。

 1974年の8月に、世界中から、百万人もの基督者が集まる大会があって、韓国のソウルを訪ねた時に、一人の青年が、私が日本人であることを知りながら、『あなたのバス代を払わしてください!』と話しかけてくれたのです。英語ででした。驚いたのですが、大会の会場の近くのバス停で降りた時に、その好意を私は感謝して受けたのです。同級生にも、同僚にも、家の近くの会社に出向されて来ていた人も、朝鮮半島の出身の方が何人もおいででした。みなさん、驚くほど紳士淑女だったのです。

 遠い昔からの隣国同士、隣人同士です。たくさんの教えを受けた歴史があります。中には、『豊臣秀吉を憎んでいます!』とはっきり、日韓の歴史を知った上で、私に話された方もいました。でも、私に対しては何の悪感情も持っていなかったのです。そんなことを思い出して、より良い関係を回復したいと、切に願っているのです。同級生が、卒業式に「シマチョゴリ」で正装して出席していました。彼女は、自分の民族性を、隠さずに表明したのです。実に綺麗でした。

 

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おめでとう!

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5月24日、朝四時半過ぎ、西の空から赤い太陽が昇ってきたところです。今日は、上の息子の「誕生日」なのです。献身し、アメリカ人宣教師に従って、開拓伝道の手伝いするために、その3月に学校を辞め、教会に来ておられる方の鉄工場で、溶接の手伝いや、溶鉱炉の焼却部分の取り替え作業の手伝いをし、上のお嬢さんの家庭教師をしながら、家内と私は、息子の誕生を待っていました。

生き方を変えたのは、確かに自分の決心と、家内の同意、宣教師の招きがありましたが、「出て行き・・・なさい」との、主の促しがあったからでした。息子もまた、同じ様に献身し、主と教会に仕えて生き始めまたのです。親バカで、子を褒める親の私は、お金や名誉のためでない職業選択をし、それを天職として、今の責任を果たしていることを感謝しているのです。

闘病中の家内の通院のために、大きな犠牲を払って、ほぼ毎回、送り迎えをしてくれています。今は6週毎の通院になりましたが、初めのうちは頻繁に通院がありましたが、送り出してくれた嫁御や孫たちにも、家内と二人で感謝しているのです。

この息子の手伝いは、家内には、最高の「良薬」となっているのです。姉たちや弟からは、『お兄ちゃんありがとう!』の感謝もあります。

もう『四十にして迷わず、五十にして天命を知る。』と言われた年齢になろうとしています。《今なすべきは何か》を心得て、教会に仕えて生きている姿に、実に素晴らしい生き方を見て、母と父である私たちは感謝しています。主の祝福を祈った朝であります。

 

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上海

Vector illustration – aerial view of Shanghai above the river

 

 成績表を、教務に出して、1年間の授業を終えて、華南の私たちの住んでいた街のバスターミナルから、夜行寝台バスに乗りました。上海に着いて、上海の波止場から、大阪行きの貨客船「蘇州号」に乗って、何度か帰国したのです。

 ある時、その上海で、かつての日本人街の一郭に残された古びたホテルに泊まったことがありました。戦火で焼けずに残ったホテルに違いありません。あの一郭は、昔のままだからです。まさに戦前を感じさせていました。そのホテルを出て、近くの上海灘を歩くと、タイムスリップしそうでした。

 かつては辺鄙な漁村だったのですが、今や東洋一の近代都市になって、さらにどんどん広がっています。侵略だけではなく、日中文化交流もあった地でした。多くの歌に歌われています。最盛期に10万人もの日本人がいたそうです。1939年に、「上海の花売り娘」のレコードが売り出されています。

紅いランタン 仄かに揺れる
宵の上海 花売り娘
誰のかたみか 可愛い指輪
じっと見つめて 優しい瞳
ああ上海の 花売り娘

霧の夕べも 小雨の宵も
港上海 花売り娘
白い花籠 ピンクのリボン
繻子
(しゅす)も懐かし 黄色の小靴
ああ上海の 花売り娘

星も胡弓も 琥珀(こはく)の酒も
夢の上海 花売り娘
パイプくわえた マドロス達の
ふかす煙りの 消えゆく影に
ああ上海の 花売り娘

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 よく「懐旧(かいきゅう)」と言ったりします。過去のことを懐かしく思い出すことですが、その旧日本人街を歩いていて、花売り娘も、マドロスたちもいませんし、ランタンもありませんでした。今は、東洋一の高さを誇った、上海のテレビ塔もありますし、歩いている人は彩の綺麗な服を着ていて、店に並ぶ品物は豊富ですし、車はひっきりなしに行き交っていした。

 歌で聞いてきたからでしょうか、若かった父が訪ねたかも知れないと思うからでしょうか、不思議に〈懐かしさ〉を感じさせてくれたのです。匂いなんか変わってしまったのでしょうけど、昔を感じさせる〈古い匂い〉がしてきたか様でした。コロナ下、もうしばらく行かない東京の街も、全く変わってしまっていますが、坂道とか道路の曲がりとか、こんもりとした林などは、昔の風情を残してることでしょう。

 あの「蘇州号」は、2020年9月末で、運行を停止してしまったそうです。『復路半額の割引券はまだ有効かな?』って心配しています。船腹の喫水線ギリギリの箇所に、「お風呂」があったのです。利用客が少なくて、時間外にドアーの鍵が空いていたので、コッソリ入ってしまったこともありました。カモメやトビオウオと競走している様に、海面を滑っていたのです。一度だけ、台風で船が前後に揺れて、流石の私も寝台に中に、逃げ込んでいました。

 『コロナ騒動が終わったら、もう一度!』の夢も、いつ叶えられか分かりませんが、それにしても、そろそろ終息しないかな!

 

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読むべきは聖書

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 人類は、たくさんの本を著し、グーテンベルクが印刷機を発明する以前、7、8世紀頃に、中国で木版印刷が行われていたそうです。印刷技術も進み、現在では数えきれない書物があります。今日も、栃木市立図書館に行き、貸し出しを受けてきました。収まりきれない本を、無料で配布する日もあったりで、更なる新刊の発行で、書架はパンク寸前なのだそうです。

 図書館の書庫の匂いが、何か知的な匂いがして、無知な私は、その匂いを嗅いでいることで、知的にされた錯覚に陥るのが好きで、どの街に住んでも、図書館通いをしてきました。  

 残念なことに私の蔵書は、処分されてしまいました。古書を買って、本のページの間に「500円札」を見つけ、そのままポケットに入れることができず、古書店にお伺いを立てたことがありました。『よろしいんじゃないですか、いただいて!』と言われた本も、500円と一緒になくなってしまいました。もう一度読みたい本が多くあったのですが。これを「後の祭り」と言うのでしょう。人生は甘くないな、と学んだ次第です。

 母が、学校に入学するにあたって、贈ってくれたのが、革で装丁された「聖書」でした。協会訳で口語で書かれたものだったのでした。ブラジルに義母を訪ねた折に、刊行月日を確かめませんでしたが、古びた「文語訳聖書」を譲り受けたのです。それもあれも失ったのですが、今は、「新改訳聖書」を使っています。アポクリファーや外典の入ったものは、信仰上の理由で読みたいと思いませんで、手にしたこともありません。

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 聖書の学びで、よく開いた「英欽定訳聖書」や「語句索引付・欽定訳聖書」、在華時に入手した「中国語訳聖書」、日本人の友人からいただいた「ピンイン漢語聖書」などが手元にあります。今では、ネット配信があって、諸言語で翻訳された聖書を読むことができます。内村鑑三は、「読むべきは聖書である」と言う一文を書き残しています。

 『小説ではない、政論ではない、然(しか)り、神学ではない、聖書其物(そのもの)である、神の言(ことば)にして我(わ)が霊魂の声なる聖書である、聖書は最も興味深き最も解(げ)し易(やす)き書である、世々の磐(いわ)より流れ出(い)づる玉の如(ごと)き清水である、之(これ)を哲学的に解釈せんとせず、之を教会の書として読まず、神が直接に霊魂に告げ給(たま)ふ言(ことば)として読んで、聖書は其(その)最も明瞭(めいりょう)なる意味を我等(われら)に供給する、我等はすべての物を読むのを止めても、然(しか)り、時々すべての物を読むを止めて、一意専心聖書を読んで之をして我等の霊魂を活(い)き復(かえ)らしむべきである。』

 それは、「教会の書」や「哲学書」ではなく、「霊魂に告げたもう言」だと断じます。私は、同志社を起こした新島襄が、漢訳聖書の「起初神創造天地。 」の巻頭を読んで、『神が居られるなら、この方こそ神である!』と思ったと言う告白を読んで、然りと思いました。村や町に、祀られている様な神々でない、真実の神を意識したのです。その生涯を、この一書に支えられ、青年教育に費やして、46歳で帰天しています。

 この聖書の最後には、次の様に書かれて、終わっています。

 『私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。(ヨハネの黙示録221821節)』

(上はグーテンベルクが印刷した「ドイツ語訳聖書」です)

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