おめでとう!

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5月24日、朝四時半過ぎ、西の空から赤い太陽が昇ってきたところです。今日は、上の息子の「誕生日」なのです。献身し、アメリカ人宣教師に従って、開拓伝道の手伝いするために、その3月に学校を辞め、教会に来ておられる方の鉄工場で、溶接の手伝いや、溶鉱炉の焼却部分の取り替え作業の手伝いをし、上のお嬢さんの家庭教師をしながら、家内と私は、息子の誕生を待っていました。

生き方を変えたのは、確かに自分の決心と、家内の同意、宣教師の招きがありましたが、「出て行き・・・なさい」との、主の促しがあったからでした。息子もまた、同じ様に献身し、主と教会に仕えて生き始めまたのです。親バカで、子を褒める親の私は、お金や名誉のためでない職業選択をし、それを天職として、今の責任を果たしていることを感謝しているのです。

闘病中の家内の通院のために、大きな犠牲を払って、ほぼ毎回、送り迎えをしてくれています。今は6週毎の通院になりましたが、初めのうちは頻繁に通院がありましたが、送り出してくれた嫁御や孫たちにも、家内と二人で感謝しているのです。

この息子の手伝いは、家内には、最高の「良薬」となっているのです。姉たちや弟からは、『お兄ちゃんありがとう!』の感謝もあります。

もう『四十にして迷わず、五十にして天命を知る。』と言われた年齢になろうとしています。《今なすべきは何か》を心得て、教会に仕えて生きている姿に、実に素晴らしい生き方を見て、母と父である私たちは感謝しています。主の祝福を祈った朝であります。

 

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上海

Vector illustration – aerial view of Shanghai above the river

 

 成績表を、教務に出して、1年間の授業を終えて、華南の私たちの住んでいた街のバスターミナルから、夜行寝台バスに乗りました。上海に着いて、上海の波止場から、大阪行きの貨客船「蘇州号」に乗って、何度か帰国したのです。

 ある時、その上海で、かつての日本人街の一郭に残された古びたホテルに泊まったことがありました。戦火で焼けずに残ったホテルに違いありません。あの一郭は、昔のままだからです。まさに戦前を感じさせていました。そのホテルを出て、近くの上海灘を歩くと、タイムスリップしそうでした。

 かつては辺鄙な漁村だったのですが、今や東洋一の近代都市になって、さらにどんどん広がっています。侵略だけではなく、日中文化交流もあった地でした。多くの歌に歌われています。最盛期に10万人もの日本人がいたそうです。1939年に、「上海の花売り娘」のレコードが売り出されています。

紅いランタン 仄かに揺れる
宵の上海 花売り娘
誰のかたみか 可愛い指輪
じっと見つめて 優しい瞳
ああ上海の 花売り娘

霧の夕べも 小雨の宵も
港上海 花売り娘
白い花籠 ピンクのリボン
繻子
(しゅす)も懐かし 黄色の小靴
ああ上海の 花売り娘

星も胡弓も 琥珀(こはく)の酒も
夢の上海 花売り娘
パイプくわえた マドロス達の
ふかす煙りの 消えゆく影に
ああ上海の 花売り娘

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 よく「懐旧(かいきゅう)」と言ったりします。過去のことを懐かしく思い出すことですが、その旧日本人街を歩いていて、花売り娘も、マドロスたちもいませんし、ランタンもありませんでした。今は、東洋一の高さを誇った、上海のテレビ塔もありますし、歩いている人は彩の綺麗な服を着ていて、店に並ぶ品物は豊富ですし、車はひっきりなしに行き交っていした。

 歌で聞いてきたからでしょうか、若かった父が訪ねたかも知れないと思うからでしょうか、不思議に〈懐かしさ〉を感じさせてくれたのです。匂いなんか変わってしまったのでしょうけど、昔を感じさせる〈古い匂い〉がしてきたか様でした。コロナ下、もうしばらく行かない東京の街も、全く変わってしまっていますが、坂道とか道路の曲がりとか、こんもりとした林などは、昔の風情を残してることでしょう。

 あの「蘇州号」は、2020年9月末で、運行を停止してしまったそうです。『復路半額の割引券はまだ有効かな?』って心配しています。船腹の喫水線ギリギリの箇所に、「お風呂」があったのです。利用客が少なくて、時間外にドアーの鍵が空いていたので、コッソリ入ってしまったこともありました。カモメやトビオウオと競走している様に、海面を滑っていたのです。一度だけ、台風で船が前後に揺れて、流石の私も寝台に中に、逃げ込んでいました。

 『コロナ騒動が終わったら、もう一度!』の夢も、いつ叶えられか分かりませんが、それにしても、そろそろ終息しないかな!

 

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