夏は来ぬ

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 明治33年(1900年)に、作詞が佐佐木信綱、作曲が小山作之助で、明治期の唱歌として、私たちが親しんできた「夏は来ぬ」があります。

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

橘(タチバナ)の 薫る軒端(のきば)の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ

楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ

この歌は、古きよき時代の季節感があふれていて、懐かしさが感じられます。ちょっと難しい言葉遣いがありますが、今の夏と少しも変わらない故郷に風情が蘇って来て、素晴らしいなあと思うのです。

 私の散歩道は、市内の街中の目抜き通りを一本脇に入った「日光例幣使街道」を、日光に向かって歩き始めています。その旧街道を離れて、「総合運動公園」に行く片道四千五百歩ほどのコースなのです。蔵の町を通り、代官屋敷跡、味噌問屋、肥料店などの前を通りますが、ほとんどは閉店してしまって、門が前だけですが。

 京の都から、年一度、旧暦の四月十五日(西洋暦だと5月26日だそうです)に、東照宮詣でをする決まりがあったそうです。そんな勅使の気持ちを味あおうと思うのですが、往時の佇まいは所々に見受けられる建物跡なのです。その気分に浸れないまま、道を逸れてしまうのです。

 その道は、けっこう車が通りますので、勅使が通過した当時にはなかった「排気ガス」を吸わなければならないのです。防毒マスクをつける代わりに、最近は、田舎道を見つけて、そこを歩いているのです。「部賀舟(ぶがぶね)」が登り下りをした巴波川の土手の上を五千歩行って、折り返して帰ってくるのにコース変更したわけです。

 藪の中でカラスの子が騒いでいて、産卵期でしょうか、鯉がバシャバシャと水音としぶきをあげていっしょいます。さらに鴨がうるさく声を上げているのですが、かれらも精一杯生きているわけです。この時期、茂みの青葉の木の中から、『ホーホケキョ、ケキョケキョ!』と鳴く声が聞こえるのです。信綱が言ったホトトギスの声です。

 この歌詞にある様な「忍び音」どころではなく、令和のホトトギスは、爽やかに、懸命に、まるで賛美しているように鳴いています。それに雲雀(ひばり)が、空を舞いながら鳴いているのです。夏よりも、まだ春を感じている感覚なのです。

 この写真は、巴波の流れの土手に咲いていた野花ですが、手折ってコップに家内が挿してくれました。矢車草が三色あったりで賑やかな春の色彩でしょうか。空には、獨協医科大学病院の《ドクヘリ》のプロペラ音がしています。

 農業用水の水路でもある巴波川の水が、田圃に引かれ、ぼちぼち田植えが始まったり、準備中です。早乙女の出る機会が、田植え機械の導入で見られない時代ですが、水路を整備していたお爺さんに、『おはようございます!』と言ったら、頷き返してくれました。やはり、「夏は来ぬ」です。

 

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