収穫の朝に思う

.

.

 『ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。(2サムエル211節)」

 『だれにも過去がある!』、二十年以上も経った今、過去が暴かれて、失脚してしまう怖さが話題になっています。芸能人が、過去に演じたコントで、芸能人を辞めて、社会的な責任を任されたいる小林賢太郎が、開会式を前にして、” TOKYO 2020 “ の Olympic show  director  を解任されてしまいました。

 この方は、テレビのお笑いコントで、「ユダヤ人大量殺戮」をネタに、10秒ほどの話をしたのが、1998年5月でした。必死にネタ作りをし、彼もその業界で生きていくために、聴衆の笑いを誘おうとした過去のことが、アメリカのユダ人権団体に、民族が被った悲劇を揶揄したと、取り上げられ糾弾されたわけです。人は、また国家や団体は、過去を引きずりながら生きているのですが、誤った「過去」は、どうしたら精算できるのでしょうか。

 本人には、弁解したり、謝罪したりする機会が与えられないのも、何か片手落ちなのではないでしょうか。あのコントを放映したテレビ局も、見て聞いて笑った人にも責任があるのでしょうか。杉原千畝により、transit visa を発行して、多くのユダヤ難民を死の収容所送りから守った行いと、この様な同民族の悲劇を笑いに変えた過去を相殺できないのでしょうか。

 ダビデの時代の飢饉が、前任者サウル王のギブオン人殺戮に原因していることを、神さまが示されました。ダビデはそれを知って、ギブオン人に〈何を償ったらよいか〉を聞きます。彼らは、サウルの類系の引き渡しを要求します。ダビデは5人を、ギブオンの手に渡しますと、ギブオン人は、その5人を処刑し、骨を野に晒すのです。そうしましたら、「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」と記されてあります。

 3000年も前に起きた一件ですが、過去の罪に対する精算という古代の方法は、人の命の重さという観点からすると、今も同じです。神が「義」でいらっしゃるからです。ホロコーストの一件を、1985年5月8日、ドイツ連邦議会で、大統領ヴァインゼッカーが演説をした中で、次の様に語りました。

 『・・・戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的でほなく個人的なものであります。人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。』

 と同じ時代を生きた者に、加担した者に、さらに戦後に生まれた者にも、「自問」を促しました。そして、次に様に言って結んでいます。

 『・・・若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、黒人や白人、これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。

自由を尊重しよう。平和のために尽力しよう。公正をよりどころにしよう。正義については内面の規範に従おう。今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しょうではありませんか。』

 『過去は変えられない。しかし自分と未来は変えられる!』、エリック・バーンが、そう言いました。私たちの手の内には、未来があります。過去の過ちは、値を払って告白し、悔いたらいいのです。だれもが過ちを犯した者の末裔だからです。歴史の厳粛さに学んでいく必要があるのでしょう。過去に拘り過ぎるのも、気をつけなければなりません。

 私は、中国のみなさんに対して負債を覚えながら生きていました。父が関わった軍需産業で製造された部品を搭載した、旧陸海軍の爆撃機や戦闘機が、多くの中国のみなさんの命を奪い、国土を荒廃させ、隣国の人々の心を傷つけたことに、父と、父の世代の所業をお詫びしたい償いの思いがあって、何ができるかを自問しながら過ごしていました。「福音宣教」こそが、一番だと示され、中国にt導かれたのです。

 そのために、私は若い時から仕えてきた教会の主は、門戸を開いてくださって、2006年に、中国に参りました。戦争が終わって60年も経ってのことでした。

 民族や国家が犯した罪は、時間が経つと霧散してしまうのではない様です。刈り取らなければならないものを残すのです。歴史を学ばずにいてはいけません。奪った命や尊厳に対して、責を負っているからです。

 『あなたに罪はありません。あなたの前の世代の、軍部がしたことですから、よいのです!』と、若い学生から年配者まで何人もの方に言われました。大学の教師のみなさんと四日ほど海浜の教会で交わりました。その集いの中で、お願いされた証の機会に、父の罪と日本の隣国侵略の罪をお詫びをしましたら、大きな感動と感謝がその集いの中にありました。みなさんに握手されて、若い頃から感じていた戦争の責を解かれた解放感を感じたのです。

 だれにも過去があり、神と人の前に犯した罪の事実が残されています。自分の民族国家にも、多大な過ちがあります。聖書は次の様に記しています。

 『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(ヨハネの手紙 第一1810節)』

 日本人の民度の高さや勤勉さや工業技術の高さを誇る様な、明るい部分にだけではなく、「暗部」を隠したり、葬ったりせずに、真正面に据えて、精算し、悔い、お詫びすべき責任があるに違いありません。そうでないと未来が見えないからです。そんなことを思う、猛暑の続く夏、ベランダのミニトマトを収穫した朝です。