赦し

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 先日、「罠師(わなし)」と言う資格があって、そのための試験を、都道府県が行っているのだそうで、初めてお聞きしました。この試験には、①知識試験、②適性試験、③技能試験の3種類があるそうです。合格すると、「狩猟免状」が、都道府県地知事によって発行されるのです。

 いわゆる「ハンター(Hunter)」になるためには、それが必要なのです。子どもの頃に、すぐ上の兄が、そういった罠を、熱心に作っていたのを覚えています。鰻を獲るための罠を、懸命に作っては、それを持って、朝早く川に仕掛けに出かけていました。またスズメなどを獲るためにも、「バッサリ」を作ったり、「かすみ網」を仕掛けていました。

 こちらに住み始めて、両毛線で桐生駅まで行って、「わたらせ渓谷鉄道」に乗ったことがありました。停車中の運転手さんと会話をした時に、『時々、走行中に鹿と衝突するのです!』と言っておられ、その事故処理のために、足元に、大きめなバッグがあって、その中に、そのための道具があるのを教えてくれたのです。

 熊とか猪は、そんなことがなく、いつも鹿が線路上にいて、逃げないので、衝突してしまうのだそうです。まだ若い運転手さんが、そう言っていました。単線走行の鉄道ですから、その場で自己処理をする必要があるわけで、確かに渡良瀬川の渓谷に沿って運行しているので、景観の美しさの反面、そんなこともある様です。この方に、『大変ご苦労をされるんですね!』とねぎらったのです。

 乗務員の方に、その免許が必要なのかどうかはお聞きしませんでしたが、講習会を受けることがあったのでしょうか。都会を走る電車にも、大変な危機が多くあるのですが、山間部に鉄道にも、けっこう危険なこともあるのですね。

 畑を荒らす猪を捕獲するための仕掛けを作るには、免許取得が義務付けられているのですね。その狩猟をする人が、「罠師」なのだそうです。若い頃に、鹿や猪や熊の肉を煮込んだ猪鍋、「シビエ料理」を食べたこともありました。けっこう美味しかったのです。

『悪者どもは私に対して罠を設けました。それでも私は あなたの戒めから迷い出ません。(新改訳聖書 詩篇119篇10節)』

 それで、『自分を罠にはめた人がいたかな?』と、思ってしまいました。世の中には、詐欺師は多くいる様で、華南の街の路上で、焼きとうもろこしを売っている商人(?)から、2本買った時に、釣り銭サギにあったことがありました。まんまと嵌められてしまったのです。

 どうも、「戒め(神さまが定められ、人が生きていくための教えや戒めのこと)」を破る様に、虎視眈々(こしたんたん)と、人を誘い出して、迷いでる様に罠を張る、実に巧みな魂を狙う敵がいるのです。

 あのダビデも誘い出されました。王宮の屋上から、湯浴(ゆあ)みする女を見たダビデが、夫のあるその女を欲するのです。何を見るか、見つめ続けるか、目に注意しなければなりません、人は、「見ること」によって誘い出されることが、往々にしてあるからです。誘い出されたダビデは罪を犯してしまいます。

 その女が、妊娠の事実をダビデに申し出ます。誰の妻であるかを調べさせると、その時、敵国との戦いの最中で、戦に駆り出されている兵士、ウリヤの妻だと分かるのです。

 その妊娠の事実を夫によるものだとするために、画策するのです。ウリヤを戦いの前線から取り戻して、一時休暇を与える様に、軍の隊長に命じます。ところが、ウリヤは戦友たちが戦っているのに、自分だけが妻の所に帰るのを拒んだのです。

 罪の隠蔽は、さらに続きます。今度は、ウリヤを戦いの最前線に出して、死なせる様に、上官に命じるのです。それで、ウリヤは戦死してしまうのです。安心したダビデは、ウリヤの妻を自分の妻として迎えるのです。そしてその女から生まれる子が、第三代のイスラエルの王に任じられるのです。
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そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ21章9節)』

 イエスさまは、ご自分を「ダビデの子」と言われることを許容されました。そんな過去があるダビデの名で、ご自分が呼ばれるのを快(こころよ)しとされたのに、驚かされます。聖書は、そんな主を愛し、賛美し、仕えてきたダビデの真実を伝えるために、暴露記事を聖書に載せるのを許されているのです。

 罠は、どんな優れた信仰の勇者、強者にも張られます。私は、聖書が、登場人物を記すのに、実に正直であることに驚かされています。人の実態を、隠さない正直さに、だからこそ本物の、神の使信のことばだと信じるのです。

 金銭、異性、名誉、そう言ったものが、『ある時に、心の隙に、スルリと入り込んで、人を堕落させるから、その罠に陥らないで、十二分に注意して生きていきなさい!』と、何度も促された若い日がありました。

 ダビデは破廉恥な、悍(おぞ)ましい罪を犯しましたが、「赦しの神」は、赦されたのです。人は赦してくれませんが、父なる神は、イエスさまの十字架のゆえに、赦してくださるのです。赦されるとは、その汚点さえも、消し去ってくださるほどのことなのです。これこそ驚きの極みです。

(ウイキペディアのイラストです)

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