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 旅行のできない今、「坊がつる讃歌(作詞:神尾明正、補作:松本征夫、作曲:竹山仙史)」の歌を聞いて、行ったことのないこの山(盆地や湿原の九重連山
)を、訪ねたことのある、阿蘇や霧島や由布院の風景に重ねて思い描いております。ここも豪雨で、被害があったのでしょうか。

1.人みな花に 酔うときも
残雪恋し 山に入り
涙を流す 山男
雪解(ゆきげ)の水に 春を知る

2.ミヤマキリシマ 咲き誇り
山くれないに 大船(たいせん)の
峰を仰ぎて 山男
花の情(なさけ)を 知る者ぞ

3.四面(しめん)山なる 坊がつる
夏はキャンプの 火を囲み
夜空を仰ぐ 山男
無我を悟るは この時ぞ

4. 出湯(いでゆ)の窓に 夜霧来て
せせらぎに寝る 山宿(やまやど)に
一夜を憩う 山男
星を仰ぎて 明日を待つ

5.石楠花谷(しゃくなげだに)の 三俣山(みまたやま)
花を散らしつ 篠(しの)分けて
湯沢に下る 山男
メランコリーを知るや君

6.深山紅葉(みやまもみじ)に 初時雨(はつしぐれ)
暮雨滝(くらぞめたき)の 水音を
佇(たたず)み聞くは 山男
もののあわれを 知る頃ぞ

7.町の乙女等(おとめら) 思いつつ
尾根の処女雪 蹴立(けた)てつつ
久住(くじゅう)に立つや 山男
浩然(こうぜん)の気は 言いがたし

8.白銀(しろがね)の峰 思いつつ
今宵(こよい)湯宿(ゆやど)に 身を寄せつ
斗志(とうし)に燃ゆる 山男
夢に九重(くじゅう)の 雪を蹴る

9.三俣の尾根に 霧飛びて
平治(ひいじ)に厚き 雲は来ぬ
峰を仰ぎて 山男
今草原の 草に伏す

 この歌は、九州大学の学生たちが、山小屋のアルバイトをしていた折に、神尾が替え歌として作詞したそうです。きっと九州で生まれていたら、この山にも登ったことでしょう。中・高校時代に、弟がM君と言う同級生と、よく山登りに出掛けていました。M君は山に魅せられて、山男になって、山小屋に籠もってしまったそうです。私も最初の職場の上司が、信州人で、よく奥多摩の山歩きに連れて行ってもらいました。

 最後の山歩きは、諏訪湖の近くの入笠山でした。家内を連れての12月、軽装で出掛けて、遭難しかけてしまいました。私の街では前日、雨でしたが、入笠山は雪でした。でも、その頂上からは四方八方見渡せて、八ヶ岳が目の前にありました。夏に連れ出せなくて、そこを見せたくて登ったのですが、無事家に帰り着きました。まだ五十代でした。

(〈絶景壁紙.com〉から九重山のミヤマキリシマです)

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好い一日を

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 いつも思うことですが、真っ黒な鉢の中の土から、こんな濃紫の色、ビーロードの様に、綺麗な花が咲くのが、不思議でたまりません。この朝顔を見ながら思ったことですが、苦界の中で,業の子として生まれた赤子は、罪の子でありながらも、王宮に生まれた王女と同じ命を受け継ぎ、愛くるしさをたたえているのですね。生まれた背景が違っても、命は尊厳の中にあります。人は植えますが、養い育ててくださる《命の付与者》の業にちがいありません。

 何度目の朝を迎えたことでしょうか。昨日と打って変わって、朝日が西側の窓から射し込んできます。今日も好い一日でありますように!

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神秘的な力

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「新聞奨学生ガイド」に、次の様な記事があります。

 『宮澤賢次の有名な詩「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」のモデルといわれる斎藤宗次郎は1877年岩手県花巻市に生まれた。小学校教諭をしていたが、無教会主義キリスト教者の内村鑑三に影響を受け、生徒に聖書や内村の日露非戦論を教えたため退職せざるをえなくなる。

 それから20年間、宗次郎は新聞配達をして清貧の暮らしを送った。新聞配達を天職と感じ、東京朝日や万(よるず)新報など十数種類、20キロ以上の新聞が入った大風呂敷を背負い、駆け足で配達したという。それだけでなく、配達や集金の際、病人を見舞い、悩みや相談を聞き、道端で遊ぶ子供たちに菓子を分け与え、地域の人々に慕われた。そのため、内村鑑三のもとで伝道者となるために上京する時には、駅に200人以上の人が見送りに来た。宗次郎は、晩年、多くの弟子に裏切られた内村に終生つくして、その最後を看取った。

 宮澤賢次は日蓮宗の信者だったが、宗派を超えた交流があった。集金に行った時、招き入れられ一緒にレコードを聴いたりした話が宗次郎の日記にみられる。賢次の散文詩「冬のスケッチ」にも宗次郎を模したらしい「加藤宗二郎」という人物が登場する。そして、「雨ニモマケズ」の詩の中に新聞配達をする宗二郎の姿を重ねる人も多い。
今、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」新聞を配っている君たちも、その日々に経験すること、人々とのつながりがきっと将来の糧となるだろう。新聞奨学生ガイドはそんな君たちを応援しています。』

 ここに登場する斎藤宗次郎は、何を言われても、何されても、怒ることなく、柔和に生きた人だったそうです。同じ岩手県下の盛岡藩、藩士の子、稲之助は、短気で喧嘩っ早く、札幌農学校に入学するのですが、教授と殴り合いをしたりするほどでした。その荒くれぶりが、次の様に伝えられています。

 『ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(活動家)というあだ名を付けられた。』

 ところが、宗教的な改心を遂げた後、全く変えられて、「モンク(伝道師)」と渾名されるほどに、変えられたのが、新渡戸稲造でした。後に、台湾総督の技師、京都大学や東京大学の教授、国際連盟の事務次長などを歴任し、今なお高く評価を得ているの稀有な国際人でした。

 一方、斎藤宗次郎は、耶蘇の故に、街の人々から迫害されますが、人々を赦し愛していきます。稲造の同級生であった内村鑑三の書き物を読んで感動を得ています。そして花巻を訪ねて来た鑑三と出会うのです。仏寺の子であったのに、その出会いを通して、耶蘇に方向転換をしてしまいます。やがて家族と共に上京し、鑑三の開く会合に集うのです。

 多くの弟子たちが去っていく中、終生、鑑三を師と仰いで行きます。その宗次郎は、在花巻の頃、新聞配達の途上で、宮澤賢治と交流をし、ともにレコードを聴いたり、巷談を交わします。

 賢治没後、彼の手帳に記されていたのが、「雨にも負けず」でした。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ(以下省略/「青空文庫」より)

 荒くれ男や仏門の子が、心霊上、人生上、根本的な変化を経験した点で、このお二人は共通しています。そんな神秘的な力があるのですね。

(花巻の冬の夜景です)

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もはや

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 ある詩人が、次の様な詩を発表しています。

       『倚りかからず』

もはや 
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや 
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや 
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや 
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて 心底学んだのはそれくらい
じぶんの耳目 じぶんの2本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは 椅子の背もたれだけ

 『いやー、ずいぶんとシンドイ人生だなー!』、この詩を読んだ感想です。「人」という漢字で、私たちは、他者と一括りにされるのですが、単純に文字の成り立ちは、〈支えたり〉、〈支えられたり〉している様子を、古代の中国の人たちが考えて、文字が誕生したわけです。人は、〈単立〉ではなく、〈併立〉な存在者だったのです。

 〈独立独歩〉であることは、自立した在り方ですから、成長した人の逞しさがあります。でも〈倚りかからない人〉って、寂しそうです。〈自分の足のみで立っている人〉って、倒れかかったら、誰に、何に、支えてもらうのでしょうか。それさえも必要なく、突っ張って生きて行くのは、辛そうです。

 この詩人が言う様に、〈自分の耳目〉だけで聞いたり、見たりするだけだと、偏向的で危険です。自分だけしか信じられない人って、厳しい人生を生きているのでしょう。この詩を読んで、ある日本の突っ張り傾向の政治家が、とある外国に行って、その国の首長と言葉を交わした話を思い出しました。『私は、神を恐れています!』と、絶対者への畏怖を語る言葉を聞いた直後に、わが国の首長は、『私は、神をも恐れません!』と言ったそうです。

 その〈神なき民〉、〈神不要の民〉の言葉を聞いた、その国の人々は、驚きあきれ、かの政治家は、欧米人の顰蹙(ひんしゅく)をかったそうです。神を畏れずに、権勢を誇った指導者は、ほとんどが悲惨な最後を遂げています。以前、独裁者の顔写真を掲載してありましたが、そのほとんどに、〈❌〉が印されてありました。

 かく詩を詠んだ詩人の茨木のりこは、24歳で結婚をして、配偶者を得ています。結婚生活25年で夫と死別しています。夫の死後に、夫への想いを綴った「歳月」を刊行していますから、夫には支えられて生きた人、夫を支えて生きた女性であったのです。戦争体験者で、反骨を貫いた方ですが、79歳で召された後は、遺言で、鶴岡市にあるご主人の墓に葬られました。椅子よりも素敵な伴侶が、この詩人にいたので、突っ張っただけの女性でなかったのを知って、ホッとしました。

(フリー素材のイラストです)

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蜂蜜

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 大きな被害をもたらせた豪雨が、梅雨前線の停滞が原因だったと、ニュースが伝えています。河川の氾濫が、肥沃な田畑を作ったと、地理では教えられていますが、急峻な山から流れ下る水に流れは、水量を増して、一気に流れ落ちるので、日本は、度重なる水害を経験をしてきています。
 
 昨秋、人生二度目の避難生活をしました。家内が病んで入院し、治療が一段落して、退院して暫くしてのことでした。台風19号は、この地域に大雨を降らせて、近くを流れる永野川や巴波川の氾濫で、床上浸水でした。幸い、二階家でしたので、身の回りのものを持って、前夜、二階に避難し、その夜はぐっすり寝てしまいました。

 早朝、五時前に起きて、下に降りてみますと、一階部分は、どこも床上浸水で、脱いだスリッパが浮いていました。水かき、泥かきをし、やっと身の回りの整理がつき、一安心したのです。5年ほど前にも、この地は洪水に見舞われていましたが、去年の方が被害が大きかったそうでした。

 その浸水した家にい続けては、健康被害があるといけないと、友人夫妻のご子息が言って、高根沢町在住の友人に連絡してくださったのです。避難できるかどうかを打診してくださいました。その方のご好意で、事務所の二階のゲストルームをお世話くださり、被災の翌日から三週間弱の間、私たちに避難所を提供してくださったのです。

 その二階に住み始めた私たちに、地元特産のお米や柿や、ブドウやリンゴ、和菓子までお届け下り、ある方はお見舞いの志まで下さいました。避難者、寄留者の私たちへの親切は、驚くほどのものでした。そこから一度は、掛かり付けの病院に通院をさせてもらいました。

 ユダヤの格言に、

『親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。』

とありますが、病態が悪化する危険性は全くなく、家内は元気に守られておりました。思い返しますと、いつも多くの親切があって、私たち家族は、守られ、祝されてきたのだと分かるのです。

 第一回の避難経験は、40年ほど前の早朝に、当時住んでいたアパートでガス爆発に遭遇した時でした。階上の家で、強烈なガス漏れ引火事故があって、わが家の玄関が、爆音とともに開き、洗濯物や飼っていた鳥が焼けてしまい、ベランダの窓ガラスが割れ、駆けつけた消防署や消防団の放水で、持ち物のほとんどが水浸しになってしまいました。

 警察と消防署の事故処理の中で、『引火していても不思議でないのに、よく守られたものです!』と言われて驚きました。私だけが、ガラスの破片で頭部に刺さる怪我を負いましたが、家人への被害は全くなかったのです。家内は、次男をお腹の中に宿し、次の月が出産予定でした。近くの私たちの倶楽部に避難して、多くの友人や兄弟たちに助けで、生活の再建ができたのは、大変感謝でした。

 長女の通っていた幼稚園から、その日の朝に連絡があって、次女の世話をしてくださるとのことで、次女は憧れの幼稚園通いができて大喜びだったのを覚えています。今夏、熊本や福岡や岐阜で被災されたみなさんは、どうなさっておいででしょうか。復旧や援助によって、1日も早く元の生活に戻れます様に願っております。

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うな丼

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「土用の日」の今夕は、「うな丼」と、季節外れの「湯豆腐」で、夕食をすませました。三週間ほど前、行きつけのスーパーマーケットで、〈三割引〉を買って、冷蔵庫の冷凍室で保管していたのを、温めてみました。〈世間並み〉には、あまり拘らないのですが、珍しく食べて、『美味しかったわ!』と、家内が言ってくれました。火曜日の夕べの〈久しうなぎ〉でした。

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モーニング・グローリィ

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 一昨日、昨日とは打って変わって、霧雨の降る栃木市です。『梅雨が終わるかな!』が、淡い期待だった様で、もう一週間は、どうも、このまま梅雨が続くと、今朝、天気予報士の方が言っておいででした。『梅雨もまたよし!』なのですが、こんなにどんよりな日が続いてしまうと、お米や果物には申し訳ないのですが、晴れて欲しいと願ってしまいます。

 ベランダで、綺麗な紫色の朝顔が咲きました。天気など、ほとんど気にしないかの様に、静かに咲き出しています。そんなベランダの向こうに見える道路を、コロナを吹き飛ばすかの様に、爆音を響かせて、オートバイ乗りに若者が、我がもの顔で走り抜けて行きました。『いいなー!」と羨ましいがったら、家内が、『うるさいは!』と答えました。

 また静かになった、駅前通りです。

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古桶

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 オランダから来られた《 Story Teller 》が、友人の倶楽部で語った話を、友人が次の様に分かち合っていました。

 『二つの水桶に水を入れて、天秤棒で担ぎながら運ぶお爺さんは、せっせと水を運びます。前には新品の桶、後ろには古ぼけた桶を下げていました。後ろの桶は、ボロボロになっている様なものだったのです。坂道を登って行くのですが、新品の桶からは全くないのですが、古ぼけた桶からは、水が漏れています。それでもお爺さんは水を運ぶのです。

 ところが新しい桶が、古い桶に向かって、「お前はなんて役立たずなんだ。半分も水を減らしてしまって。働きゾンのくたびれ儲けだ。お前なんかさっさと辞めちまえ!」と、軽蔑を込めて言うのです。それを聞いた古桶は、ひどく落胆してしまいます。そんなしょげてる桶は、お爺さんに、「こんな役立たずの私を使うのは辞めてください。捨てるなりなんなりしてください。」と言います。それを聞くとお爺さんは、「何を言うのか、あなたはこれまで、ずっと私のために働き続けてくれたじゃあないか。今だって立派な仕事をしてくれている。」と言いました。

 お爺さんは、いつもの坂道に、この古桶を連れて行って、道端で咲いている小さな花を指差すのです。そして、「ご覧、なんて綺麗な花なんだろう。君が水をこぼしてくれたので、この乾き切った坂道に花が咲く様になったんだよ。この咲く花で、私は、どれだけ慰められ、励まされたか知れない。それはみんな、君が水をこぼしてくれたからなんだ!」と言いました。』

 この話を聞いて、父の若き日を過ごした中国に行こうとしていた時に、こう言われたのを思い出したのです。『そんなに歳をとって、しかも外国に行って、どんな働きができるのか!』と言われたことをです。それでも、私は、家内の手をとって、成田から飛行機に乗って、香港にまず行きました。1週間、いろいろな国から来た20人ほどの方たちと、オリエンテーションを受けたのです。若い人たちばかりで、老人は私たちだけでした。

 それを終えて、私たちは、寝台列車で北京に向かいました。北京には、天津の語学学校の関係者が出迎えてくれていたのです。中国本土に着いて、私たちの仲間で、老人は私たちと、もう3組の夫婦がいるだけでした。『そんな歳で、何をしようとしてるのですか?』と言う目で、同邦の若い女性に見られたのです。辛辣なことを言われて、少しの戸惑いがなかったわけではありませんが、家内と私には、長く続けた仕事を辞め、後ろ髪を振り切って、何者かに押し出され、やって来た強い《決心》があったのです。

 水漏れのする桶の様な古びた私たちへの大方の予想は、『一年ほどで終えて、帰るだろう!』でしたが、あにはからんやで13年も、中国大陸で過ごすことができたのは、私たちにも奇跡の様でした。何人もの方たちが、『歳を取られているのに、中国の私たちのために来てくださって、本当にありがとうございます!』と言ってくださった激励があったからなのかも知れません。

 友人や家族や兄弟から頂いた餞別で、異国での滞在には限りがありましたが、華南の街に着いて間も無く、大学の日本語学科で、日本語教師として働く機会が与えられたのです。ずいぶん高い俸給が与えられ、学長に、『ずっと、ここで教えてください!』と言われたほどでした。それは2人で生活をするのに、ちょうど好いほどでした。滞在期間、援助をし続けてくださったみなさんがいたのも、感謝に尽きません。

 私たちの〈こぼした水〉が、花を咲かせたかどうか分かりません。生き続け、いえ生かされ続けていることによって、ありのままの《存在の意味》があることを証明してくれたのではないでしょうか。そう言えば、学生や若いみなさんの間に、家内と私がいて、一緒の時を過ごしたことに、彼らの感謝がありました。このところ自虐傾向が強過ぎる私ですので、在華時に、『私たちと一緒にいてくださってありがとうございます!』と、何度も言われたことも申し添え、ヒビの入った珈琲カップにも、色のあせてしまったTシャツにも、まだ務めがありそうです。

(〈フリー素材〉で映画「裸の島」の一場面です)

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天来の守り

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 植物学者のメンデル(1822年7月20日〜1884年1月6日)が、エンドウ豆の実験で、「遺伝の法則(メンデルの法則)」を発見したということを教わったのは、小学生の時でした。簡単に言うと、《子は親に似る》との結論です。動物も植物も、そして人も、そう言えます。父の几帳面さを、受け継いだ、二人の兄と弟に比べて、自分は乱雑な傾向にあります。私たちの四人の子に当てはめると、彼らの良い点は母親似で、良くない点は自分に似ている様です。

 自然界には、多様性があって、人間も多様です。同じ親から生まれながら、顔貌はともかく、性格や生き方の良さを受け継がなかった自分を意識しつつ生きてきました。今朝も、家内が華南の街で、日本語を教えていた生徒から頂いた、綺麗な「夫婦茶碗」に、ヨーグルト、バナナ、干し葡萄を入れて、食卓に運ぼうとして、私の分を落として割ってしまったのです。家内は、『形ある物は壊れるわ!』と言ってくれたのですが、申し訳ないことをしてしまいました。

 人の内には、「遺伝情報」が組み込まれてあったことが、分かったのは、このメンデルが「遺伝子」の存在を発見してからです。親の写し絵の様な遺伝を受け継いで、私たちがあるわけです。何年も前からから、“ DNA ” を受け継いでいることが言われ始め、亡くなった方がだれかを特定するために、その方の髪の毛、使っていた歯ブラシなどから“ DNA検査 ” が行われる様になりました。確かな精度で特定されています。

 科学や学問とかの研究で、その“ DNA ” の存在がはっきりする以前から、その「遺伝情報」が、私たちの内側に組み込まれていたと言うのは、とても神秘的です。誕生した時に、そう言ったものを受け継いでいると言う驚きなのです。
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 東日本大震災が起こった時、私たちは、東京郊外の長男の家におりました。それに伴って発生しました「福島原発事故」の報道ニュースが、にぎやかに放映されていました。その後、次男の家で家内と三人で、「学べるニュース~生放送3時間~(tv asahi)」の番組を観ていたのです。この番組に、東京工業大学の原子炉工学研究所准教授の松本義久さんが出演されておいででした。

 長男と同世代の研究者ですが、私たち素人に、チンプンカンプンな専門的な話をされるのかと思って、耳を傾けていましたが、話しぶりは巧者ではありませんが、平易な言葉で、私たちが理解できるように話されており、つい聞き入ってしまったのです。松本准教授が、番組のおしまいに、この放射能汚染の危機のただ中で、大きく揺れ動く東日本の窮状のただ中で、『《お守り》があるんです!』と言われました。

 『今回の一連の流れの中で、2つの放射能があるんです。1つは、《本当にこわい放射能》、もう1つは、《本当は怖くない放射能》です・・・』と話されたのです。『この《本当に怖い放射能》に立ち向かいながら、この事態を収束させようと頑張っていらっしゃる働くレスキュー隊のみなさんには、ほんとうに敬意を表します。』と謝辞を述べておいででした。

 日本存続を大きく左右する現場で、放射能の汚染に冒される危険を顧みずに、一命を賭して働かれていらっしゃるみなさんへの感謝こそ、この未曾有の国家的危機を脱するために、私たちのできることだと知らされたのです。今も、コロナ感染で収集のつかない状況下で、危険を顧みないで、医療と防疫などの面で、日夜、働いておられる方々がおいでです。

 震災後、政府の対応の稚拙さ、東電の周章狼狽ぶり、福島県民の怒りと戸惑い、近隣の都県の住民の恐怖、世界中が声を上げている放射能汚染の影響、報道ニュースは、次から次へと伝えていましたが、《事故現場》だけに、解決の要諦があります。『税金の無駄遣いだ!』、『憲法違反だ!』と揶揄避難されてきた自衛隊の隊員のみなさんの雄々しく危機に立ち向かい介入される姿に、背筋の伸びる思いをさせられたのが昨日の様です。
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 今回の熊本や福岡や岐阜や長野などでの集中豪雨による河川の決壊、洪水の中、警察官、消防隊員、下請け企業みなさん、ボランティアのみなさんが、最前線に立って怯(ひる)まない姿こそ、まさに《益荒男(ますらお)》そのものではないでしょうか。ただ、コロナ禍の中で、県をまたいだボランティアが要請できないと言う事態が持ち上がっています。

 でも恐れたり、不安にならないでいいのです。もちろん現代人に必要なのは、傲慢さを悔い改めることなのかも知れません。謙虚になって、生きている意味を知る必要がありそうです。どの時代の疫病の流行も、やがて弱体化し収束してきました。私たち人類は、多くの危機を超え6000年の間生き続けてきました。造物主に憐みによるのでしょう。

 私たち人間の内側には、《天来の祝福》が宿っているのではないでしょうか。松本さんは、日本人の受け継いできたDNA(遺伝子)についても触れていました。『・・・恐れるあまりに大事なものを失ってきている・・・これだけは伝えたいと思います。私たちの体は、放射線から守る、すごい《お守り》を持っているんです。それが遺伝子・DNAなんです!』とです。

 この《お守り》について次の様に説明されています。

 『私たちの体は放射線から守る『お守り』を持っています。それが放射線で影響を受ける遺伝子DNAです。30数億年の生命の歴史の中で直面してきたありとあらゆく緊急事態を切り抜けた、切り抜け方を書いてある想定不能という言葉を持たない究極の緊急事態マニュアルです。それと放射線に立ち向かって行くお父さん・お母さんから受け継いで子供たちに受け継いでいくんです。僕たちみんながつながっているんです。どこかで。みんなが頑張ってくれと言っているつながりを確かに示す《お守り》なんです。』

 否定的なことにだけ目を向けて、慌てふためいている日本人に、『だいじょうぶ、恐れるな!慌てるな!落ち着け!』と肯定的なとらえ方を訴えておられました。この科学者というよりは哲学者のような勧めに、私は同意します。戦いの前線で、働いてくださるみなさんが大勢いることにも行って感謝したいのです。

 父や母、祖父や祖母たちは、幾多の困難や危機を超えて、この素晴らしい国土を、そして地球を守り残してきてくれたのですから。何よりも、造物主の《憐憫と恩寵》、全地の統治者からいただくことのできる、人知を超越した《天来の知恵》を信じたいのです。

(日テレの報道写真の人吉の豪雨、東日本大震災で救援にきてくれた中国の救援隊です)

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鉄道唱歌

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 数年前に、読みたい月刊誌の購入を、メールで、私の弟にお願いしたことがありました。もちろん通販で取り寄せることもできたのですが、彼の家の近くの駅横に本屋があったのを思い出し、「誌名」と、「発行月(2018年7月18日)」と記して送信したのです。

 ところが帰国した頃には、お願いしたことを忘れていましたら、『準ちゃん、頼まれていた雑誌!』と言って、訪ねた折に手渡されたのです。そのことを思い出して、早速、手にしてパラパラとめくってみたのです。月刊紙などを買うことなどほとんどなかったのですが、華南の街の外国住まいだからでしょうか、祖国への思慕の念が強く、『今度帰国したら、旅をしてみよう!』と思っていましたら、件の雑誌の広告を目にして、買い置きをお願いしておいたわけです。

 それが、「昭和の鉄道旅(旅行読売/臨時増刊)」です。今でも、しっかり机の上の本立てに入れてあります。学校で、「地理」や「日本史」などを教えたこともあり、中学の頃には、時刻表や地図を見るのが好きでしたので、〈眠っている子〉を覚まてしまったのかも知れません。
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 狭い日本列島に、網の目の様に鉄道が敷かれ、私鉄から国有鉄道に移り変わり、地方都市には地方の私鉄が伸びて行ったわけです。東海道線を初めとする駅を歌い込んだ「鉄道唱歌(大和田建樹作詞・多梅稚〈おおのうめわか〉作曲)」があります。その最初の部分と主な駅の歌詞は次の様です。

汽笛一声(いっせい)新橋を
はや我(わが)汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として

右は高輪(たかなわ)泉岳寺
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載(せんざい)の後(のち)までも

窓より近く品川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州か

梅に名をえし大森を
すぐれば早も川崎の
大師河原(だいしがわら)は程ちかし
急げや電気の道すぐに

鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーション
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがすまで

横須賀ゆきは乗換と
呼ばれておるる大船の
つぎは鎌倉鶴ヶ岡
源氏の古跡(こせき)や尋ね見ん(横須賀)

扇(おうぎ)おしろい京都紅(べに)
また加茂川の鷺(さぎ)しらず
みやげを提(さ)げていざ立たん
あとに名残は残れども(京都)

三府(さんぷ)の一(いつ)に位して
商業繁華の大阪市
豊太閤(ほうたいこう)のきずきたる
城に師団はおかれたり(大阪)

目立つ家々築地松
宍道湖上流斐伊川を
渡れば出雲市駅に着く
明治時代はここまでで(出雲)

 一説によると、「399番」まである歌です。この「昭和の鉄道旅」には、「鉄道線路図(1964年12月1日現在)」の付録がついていて、今では廃線になってしまった路線も載っています。先日、利用した「わたらせ渓谷鉄道」は、「旧国鉄・足尾線」での記載です。郷愁を感じさせてくれるのは、飛行機ではなく、鉄道やバスを乗り継いだ旅なのではないでしょうか。

 調べましたら、「鉄道唱歌・足尾編」もありました。
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町をめぐれる渡良瀬の  
水上深く尋ぬれば
いにしえ勝道上人が
白き猿に案内させ

山に続きて二里南  
銅鉱出す足尾あり
富田すぐれば佐野の駅
葛生 越名にいたるみち

 作詞者の大和田建樹は、幕末に伊予藩の藩士の子として生まれ、高等師範学校(今の筑波大学)で教鞭をとった方です。幼少期から漢学や国学を学んだ、驚くほどの国語力を持った作詞者であることが分かります。

1. 夕空晴れて秋風吹き
 月影落ちて鈴虫鳴く
 思へば遠し故郷の空
 ああ、我が父母いかにおはす

2. 澄行く水に秋萩たれ
 玉なす露は、ススキに満つ
 思へば似たり、故郷の野邊
 ああわが弟妹(はらから)たれと遊ぶ

 どなたもご存知でしょう、作詞した詩に、スコットランド民謡の譜を付けた「故郷の空」は、大和田の作品です。明治を彷彿とさせる歌詞に、自分の故郷が重なって、眩しくて仕方がありません。

(旧新橋駅、わたらせ渓谷鉄道の沿線の写真です)

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