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大きな被害をもたらせた豪雨が、梅雨前線の停滞が原因だったと、ニュースが伝えています。河川の氾濫が、肥沃な田畑を作ったと、地理では教えられていますが、急峻な山から流れ下る水に流れは、水量を増して、一気に流れ落ちるので、日本は、度重なる水害を経験をしてきています。
昨秋、人生二度目の避難生活をしました。家内が病んで入院し、治療が一段落して、退院して暫くしてのことでした。台風19号は、この地域に大雨を降らせて、近くを流れる永野川や巴波川の氾濫で、床上浸水でした。幸い、二階家でしたので、身の回りのものを持って、前夜、二階に避難し、その夜はぐっすり寝てしまいました。
早朝、五時前に起きて、下に降りてみますと、一階部分は、どこも床上浸水で、脱いだスリッパが浮いていました。水かき、泥かきをし、やっと身の回りの整理がつき、一安心したのです。5年ほど前にも、この地は洪水に見舞われていましたが、去年の方が被害が大きかったそうでした。
その浸水した家にい続けては、健康被害があるといけないと、友人夫妻のご子息が言って、高根沢町在住の友人に連絡してくださったのです。避難できるかどうかを打診してくださいました。その方のご好意で、事務所の二階のゲストルームをお世話くださり、被災の翌日から三週間弱の間、私たちに避難所を提供してくださったのです。
その二階に住み始めた私たちに、地元特産のお米や柿や、ブドウやリンゴ、和菓子までお届け下り、ある方はお見舞いの志まで下さいました。避難者、寄留者の私たちへの親切は、驚くほどのものでした。そこから一度は、掛かり付けの病院に通院をさせてもらいました。
ユダヤの格言に、
『親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。』
とありますが、病態が悪化する危険性は全くなく、家内は元気に守られておりました。思い返しますと、いつも多くの親切があって、私たち家族は、守られ、祝されてきたのだと分かるのです。
第一回の避難経験は、40年ほど前の早朝に、当時住んでいたアパートでガス爆発に遭遇した時でした。階上の家で、強烈なガス漏れ引火事故があって、わが家の玄関が、爆音とともに開き、洗濯物や飼っていた鳥が焼けてしまい、ベランダの窓ガラスが割れ、駆けつけた消防署や消防団の放水で、持ち物のほとんどが水浸しになってしまいました。
警察と消防署の事故処理の中で、『引火していても不思議でないのに、よく守られたものです!』と言われて驚きました。私だけが、ガラスの破片で頭部に刺さる怪我を負いましたが、家人への被害は全くなかったのです。家内は、次男をお腹の中に宿し、次の月が出産予定でした。近くの私たちの倶楽部に避難して、多くの友人や兄弟たちに助けで、生活の再建ができたのは、大変感謝でした。
長女の通っていた幼稚園から、その日の朝に連絡があって、次女の世話をしてくださるとのことで、次女は憧れの幼稚園通いができて大喜びだったのを覚えています。今夏、熊本や福岡や岐阜で被災されたみなさんは、どうなさっておいででしょうか。復旧や援助によって、1日も早く元の生活に戻れます様に願っております。
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