どれ程

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『 “ カラン、コロン"と音を立てて下駄を履いて、例幣使街道を歩いてみたい!』との願いがあるのですが、今一つ勇気がなくて、家の近く、桐の下駄を売る店の前を通るたびに、もう一歩を取らずじまいで、一年半が経ってしまいました。音が高くて、遠慮したい気持ちも強いのも、履けないでいる理由です。

小学生の頃のことですが、甲州街道から旧道に曲がる角に、炭や薪、石油、履き物を売る店があって、母が履いてる様な幅の少ない婦人用の下駄が履き心地がよくて、それをいつも買っては、鼻緒をすえてもらったのです。年配のおばさんが、膝の上で作業をするのを眺めていました。どこの子か分かっていて、ニコニコしてやってくれたのです。

靴を履く様になったのは、いつ頃だったでしょうか。中学に入った時、くるぶしまでの高さの靴で、紐を閉めたり緩めたりするのが面倒でしたが、中学生になった気分を味わえたので、得意になって〈編み上げの靴〉を履いたのですが、それまでズック靴を履いた記憶が、ほとんどないのです。

その短靴を履いた経験がないので、いまだに短靴は好きになれないのです。それでブーツ形式の“ チャッカ “ という靴が好きで、今も履いています。でも、下駄履きで歩く、あの原風景の感触を思い出して、その懐かしい思いが蘇ってきてしまうのです。

行春やゆるむ鼻緒の日和下駄   永井荷風

江戸の名残を、思いの内に強く残す荷風は、明治、大正、昭和を生きたのですが、身持ちが悪く、家庭建設の失敗者であり、それでも、彼一様の文学は、とても優れていたのです。1952年、『温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した。』と、文学上の功績を高く評価され、文化勲章を受けています。

千葉県市川を、終の住処(ついのすみか)とした荷風は、最後の食事が、その街にあった大黒屋の「カツ丼」だったそうです。先日、カツ丼を食べた私は、まだ生きていますし、文学とは無縁なただの人ですが、あのカツ丼が最後にならなかったのは幸いでした。洋風の “ ラザニア ” かなんか、最後に食べてみたいなと思っています。

さて、下駄の似合いそうな方は、この句にある様に、荷風だと思うのですが、たまには下駄で歩いたのでしょうけど、帽子を被り、傘を下げて、黒皮の短靴が、往年のこの方の出立だったそうです。田舎者は東京、いえ江戸を憧れるのかも知れません。

今はないのですが、新宿駅のホームとホームをつなぐ地下道を、カランコロンと音を立てて、朴歯(高下駄)を、履いて得意になって歩いていた日がありました。たった一人で、颯爽と歩いていたつもりでした。若さって、目立ちたくて、何でもやってしまったのが、今になると、恥ずかしく思い出されてしまいます。さぞかし大人のみなさんには、漫画的な絵だったのでしょうね。

ここは、下駄履き禁止の条例はなさそうなので、〈年寄りの冷や水〉で、夢よもう一度、やってみようかと思っているところです。ただし、最近は、家内に相談すると言う流れが身についていますので、果たして賛同してくれるか分かりません。〈昔恋しい下駄〉、いつまでも甘えた様な生き方が離れないでいるジイジであります。下駄やチャッカ靴、また裸足で、これまで、どれ程、この地球を歩いてきたことでしょうか。

(フリー素材の写真です)

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