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なかなか東京が遠くなってしまった今、昭和32年、1957年頃の新宿を、思い出してしまいました。それは中学に入学した年でした。籠球(バスケットボール)部に入部していたのです。週末に、よく系列高校の東京都予選が、両国高校や九段高校などであって、応援とボール持ちで駆り出されました。
戦いすんで、日が暮れると、新宿駅で途中下車して、西口の「思い出横丁(当時はションベン横丁と言ってました)」で、食事を奢ってもらったのです。犬や猫や兎の肉の肉丼なんかを食べさせられたかも知れません。お腹が空いていて、大学生や、社会人のOBが食べさせてくれたのです。
バスケをするのですから、並みの高校生よりも一際大きいのです。そんな先輩の跡を追って練り歩く行列の中に、まだヒヨコの様な中学生の子どもがいました。東口には、「三平」と言う実に大きな食堂もありました。安くて時々利用したのです。「ACB(アシベ)」と言う喫茶店もありました。
闇屋横丁が、上野にも渋谷にも、どこにも残っていた時代でした。歯科医や市会議員の息子たちは、お金を持っていて、景気良く、いつでもご馳走になっていました。予科練帰りの〈大OB〉などもいて、昔の運動部は、半分軍隊みたいでしたが、チビの私たちには、みんなが優しかったのです。そんな環境の中で、普通の中学生よりはマセていて、生意気盛りでした。
新宿の歌舞伎町が、今の様な歓楽街に激変する前は、1956年に営業開始した「コマ劇場」が中心にありました。杮(こけら)落としの開演に、父が連れて行ってくれました。何を観たのか全く覚えていないのです。とてつもなく大きくて、大都会の煌びやかさだけは覚えています。
そんなことを思い出したのは、コロナ旋風を騒がす風俗店の街の歌舞伎町が、コロナ陽性者を生んでると言うニュースを聞いたからです。その西口には、父の会社がありました。工学院大学があって、今の都庁辺りになるのでしょうか、そこに淀橋浄水場が大きな敷地の中にありました。
激変すればするほど、東京が遠くなります。都市の変化は、華南の街も同じで、あれよあれよの激変ぶりには、驚かされました。目を瞑っている間に変わってしまう様な、猛スピードでした。汚く乱雑だった街が、一ヶ月ぶりに訪ねると、銀座通りの様に変わってしまっていました。喫茶店やケーキ屋、パン屋の果物店が、猛スピードに出来上がっていました。
それに引き換え、今住む街は、昔の風情を残し、大きな街なのに、歯が抜けた様に家が取り壊されて、敷地が駐車場化されています。自転車で街巡りをすると、昔ながらの医院、豆腐屋、下駄屋、支那蕎麦屋があって、江戸や明治の世に建てられた蔵などが散在した街です。明治や大正の昔情緒が、なんともいいのです。
(新宿西口周辺の古写真です)
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