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私は、どうも〈悔い〉が多いのです。もっと早く音楽に関心を持ちたかったというのが第一の悔いです。子どもの頃、小学校の入学式を欠席したのが初めで、病んで学校に行けない日が多かったので、家にいて、母がかけてくれるラジオを聞いて、日がな布団の中で寝ていたのです。天井を見上げると、微熱のせいで、板の節がクルクルと周り始めて、ウツラウツラするのを繰り返していました。
あの頃、「名演奏家の時間」という番組があって、クラシック音楽が聞こえて来たり、昼過ぎになると、「昼のいこい」の小関裕而作曲のテーマ音楽が聞こえて来たり、農事通信員のお知らせが読まれたり、レコード音楽が聞こえて来ました。けっこう音楽を聞く時間が多かったのですから、音楽の道を選んだらよかったのですが、病欠の弱い男の子の私は、強くなりたくて、軟弱な音楽を嫌う様になっていきました。
それで毎日の様に聞いたクラシック音楽は、目の回る様な微熱や咳の中で聞いたので、病欠と結びついていて、大きくなって聞きたくなくなったのかも知れません。そんな中で、大人になって、映画の中で聞いたある音楽に魅せられてしまったのです。その映画が、「戦場のピアニスト」で、その中で奏でられていたのが《ショパン》の作品でした。
ドイツ軍の砲撃の中、ワルシャワのラジオ局で、建物が崩れ落ちる中で演奏されていた曲(「ノクターン第20番嬰ハ短調」)と、戦争末期、砲弾を受けて瓦礫となった建物の静寂な中で、響き渡っていた曲(「バラード第一番」)が、私の心を打ったのです。主人公のスピルマンが演奏していたショパンの作品でした。戦争や砲弾、廃墟の瓦礫の中での美しい旋律の音楽の対比がよかったからでもあります。
すっかり音楽に目覚めてしまったわけです。後になって、DVDを借りて何度か、映画を見直したこともあり、カンヌ映画祭でも、アメリカのアカデミー賞でも賞を得た秀逸の作品でした。その中のショパンでした。
もう20年も前になるでしょうか、当時住んでいた街の隣街の図書館で、講演会があって、家内と一人の高校生と一緒に聞きに行きました。この映画の主人公、スピルマンの息子さんがお話をされたのです。子スピルマンは1951年生まれのポーランド国籍(現在はイギリス国籍を取得)で、父39才の時の子でした。当時は、九州産業大学や拓殖大学で客員教授をされて、「日本史」を研究されておられたのです。日本人女性と結婚されていました。
その講演では、ユダヤ人の民族的背景を持っている彼が、自分の父を客観的な目で語っておられました。「ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)」で、父や母や親族や友人を失った父スピルマンは、生き残ったことの罪責感に苦しんで、戦後を生きたそうです。父から戦時下の体験をまったく聞いたことのなかった彼は、父が1945年に著わした「戦場のピアニスト」という本を、12才の時に見つけて読みます。そういった父の著書を通して、間接的に、父の体験を知ったのだそうです。
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彼がまったく父の過去を知らなかったのは、話してくれる親族が、ホロコーストで、犠牲になって、だれもいなかったからでした。父スピルマンは、忙しく生きることで、その体験を思い出さないようにしていました。そしてそんな父でしたが、年をとるにつけ、忙しくなくなると、ポツリポツリと、長男である彼に体験談を語ったのだそうです。
その本が再び日の目を見たのは、ドイツ語訳で、1987年に再版されてからでした。そうしますと話題をさらって、英訳や仏訳が刊行され、すぐに完売してしまいます。それで映画化が決まった翌年の2000年7月5日に、父スピルマンは召されていきます。
『父は真面目だった!』と、子スピルマンは語っています。1つは音楽に関してです。音楽を〈食べるための道具〉にしなかったのです。どのようなジャンルの音楽にも関心を向けます。ジャズも好きだったようです。そして極限の中で、『自分が発狂することなく自殺からも免れることが出来たのは《音楽》だった!』と語っています。
もう1つは《人種問題》でした。『人を個人として見るように!』と言い続けたそうです。どの民族にもよい人も悪い人もいること。民族全体が悪いのではない。ドイツ人だって、みんなが悪いのではない。そういった信念の人だったようです。でもユダヤ人の血と言うのでしょうか、アブラハムの末裔といったら言いのでしょうか、信念や生き方は、やはりユダヤ的なのではないかと感じられました。
映画の中に出てきた、あのドイツ人将校は、カトリックの信者で、ドイツの敗色が強くなったので助かるために父スピルマンに親切にしたのではなく、いつも常に、人道的に親切な人だったようです。『あの時のヒーローは、父ではなく、父を命がけで助けた友人たち、そしてあのドイツ人将校だったのです!』と、ご子息は言っていました。一時間半ほどの講演でしたが、ユダヤ人の1つの足跡に触れることが出来、とても感謝なひと時でした。
民族の大危機の中にも、愛が動き、愛が示されたのですね。二度とあのような時代がこないように願い、ショパンを聞きたい心境の九州豪雨、コロナ禍の渦中の私です。
(ワルシャワのユダジンゲットーの記念建物です)
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