神秘的な力

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「新聞奨学生ガイド」に、次の様な記事があります。

 『宮澤賢次の有名な詩「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」のモデルといわれる斎藤宗次郎は1877年岩手県花巻市に生まれた。小学校教諭をしていたが、無教会主義キリスト教者の内村鑑三に影響を受け、生徒に聖書や内村の日露非戦論を教えたため退職せざるをえなくなる。

 それから20年間、宗次郎は新聞配達をして清貧の暮らしを送った。新聞配達を天職と感じ、東京朝日や万(よるず)新報など十数種類、20キロ以上の新聞が入った大風呂敷を背負い、駆け足で配達したという。それだけでなく、配達や集金の際、病人を見舞い、悩みや相談を聞き、道端で遊ぶ子供たちに菓子を分け与え、地域の人々に慕われた。そのため、内村鑑三のもとで伝道者となるために上京する時には、駅に200人以上の人が見送りに来た。宗次郎は、晩年、多くの弟子に裏切られた内村に終生つくして、その最後を看取った。

 宮澤賢次は日蓮宗の信者だったが、宗派を超えた交流があった。集金に行った時、招き入れられ一緒にレコードを聴いたりした話が宗次郎の日記にみられる。賢次の散文詩「冬のスケッチ」にも宗次郎を模したらしい「加藤宗二郎」という人物が登場する。そして、「雨ニモマケズ」の詩の中に新聞配達をする宗二郎の姿を重ねる人も多い。
今、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」新聞を配っている君たちも、その日々に経験すること、人々とのつながりがきっと将来の糧となるだろう。新聞奨学生ガイドはそんな君たちを応援しています。』

 ここに登場する斎藤宗次郎は、何を言われても、何されても、怒ることなく、柔和に生きた人だったそうです。同じ岩手県下の盛岡藩、藩士の子、稲之助は、短気で喧嘩っ早く、札幌農学校に入学するのですが、教授と殴り合いをしたりするほどでした。その荒くれぶりが、次の様に伝えられています。

 『ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(活動家)というあだ名を付けられた。』

 ところが、宗教的な改心を遂げた後、全く変えられて、「モンク(伝道師)」と渾名されるほどに、変えられたのが、新渡戸稲造でした。後に、台湾総督の技師、京都大学や東京大学の教授、国際連盟の事務次長などを歴任し、今なお高く評価を得ているの稀有な国際人でした。

 一方、斎藤宗次郎は、耶蘇の故に、街の人々から迫害されますが、人々を赦し愛していきます。稲造の同級生であった内村鑑三の書き物を読んで感動を得ています。そして花巻を訪ねて来た鑑三と出会うのです。仏寺の子であったのに、その出会いを通して、耶蘇に方向転換をしてしまいます。やがて家族と共に上京し、鑑三の開く会合に集うのです。

 多くの弟子たちが去っていく中、終生、鑑三を師と仰いで行きます。その宗次郎は、在花巻の頃、新聞配達の途上で、宮澤賢治と交流をし、ともにレコードを聴いたり、巷談を交わします。

 賢治没後、彼の手帳に記されていたのが、「雨にも負けず」でした。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ(以下省略/「青空文庫」より)

 荒くれ男や仏門の子が、心霊上、人生上、根本的な変化を経験した点で、このお二人は共通しています。そんな神秘的な力があるのですね。

(花巻の冬の夜景です)

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