キュウリ

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 娘が起き忘れたキュウリの種を、家内がプランターに蒔いて、実がなりました。今朝のベランダは、今年一番のにぎやかさです。昨日、蜜蜂が、24も花をつけた枝に飛んできて、吸蜜していました。収穫の季節がベランダに来そうです。

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海の夏

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 太平洋岸の街に、グランパ(私と家内はジイジとバアバ)の家があって、次女の子たちが友人たちと訪ねて、サーフィングを楽しんでいる様子を撮った写真が送られて来ました。コロナ禍で、こんな時間を過ごせるのはいいですね。湘南海岸でも、どこの海浜でも、今年は遊泳禁止なのだそうですが、アメリカの西海岸は、個人や家族の決定に任されているのでしょうか。

 この西海岸の海は、水温が冷たくて、海水浴はできないのです。孫たちは、スイミングスーツ、サーフスーツを着ています。こんな夏の過ごし方はいいですね。以前訪ねた時に、この海岸のレストランに連れていってもらって、生牡蠣をご馳走になったことがありました。イタリア系の人たちは、牡蠣を生で食べるのですが、大勢の人が注文して、レモンのジュースをかけて食べていました。夏ではなかったと思います。

 牡蠣と言えば、華南の街に、「シャングリラホテル」があって、友人のご主人が政府の人で、招待券をもらったからと、そこのランチに連れていってくれたことがあり、生牡蠣があったのです。海鮮料理を生で食べる習慣が、中国のみなさんにはないのですが、大皿にいっぱい載っていて、思いっきり食べてしまいました。家内は食べなかったのですが、美味しかったのです。一度きりの華南の街の贅沢でした。

 奥まった関東平野の街で、手で触れる様に、日光の山並みがありまして、海のない県に住み始め、さらにコロナでの行動制限で、ほとんど電車に乗らなくなってしまった今、乗って、茨城か湘南の海に、海を見に、潮騒を聞きに、砂浜を裸足で歩きに行ってみたい思いがしてきます。マスクをしたら行けそうでしょうか。でも「自粛」の二文字が、目の前にちらつくのは時節柄仕方がなさそうです。

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五月雨

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 元禄2年(1689)5月28日(新暦7月14日)、出羽国山形の最上川を、芭蕉は、訪ねています。この川は、私たちの住む栃木の巴波川には比べられないほど、水量の多い河川で、同じように、「舟運」が盛んだったそうです。その中でも、芭蕉が逗留した、大石田村は、もっとも舟運の盛んな地だった様です。芭蕉は、次のような文を遺しています。

『最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の 滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。』

 その大石田村の一人の門人を訪ねた芭蕉が、そこで詠んだ句が残されており、とくに有名な句なのです。
   
   さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川

 旅の途中で詠んだこの句を、江戸に持ち帰ってから、「奥の細道」を編集した時には、次の様に改作している様です。

   五月雨をあつめて早し最上川

 中一で、「奥の細道」を学んだ時に、覚えさせられた句でした。水量が多い流れは、これまで幾度となく洪水をもたらせ、近郷近在の農家が難儀させられた川でした。今夏、梅雨前線の停滞で、九州から、ここ東北に至るまで、想像を絶するほどの雨量の雨を降らせ、ここ最上川は数箇所で決壊したそうです。それで、この句を思い出したのです。(☞五月雨〈さみだれ〉)

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 芭蕉が訪ねたのも、五月(新暦の七月)でしたから、梅雨の時期だったのでしょう、最上川の流れが、ずいぶんと早かったことが、詠み替えられているのです。その折に読んだ句が、もう二つ三つありますが、その一つは次の句でした。

   風の香も南に近し最上川

 父は、この山形県で仕事をしていたことがあったのですが、兄たちは、生活したことがあった様です。母も父も、山形でのことは、あまり語ったことがなかったのですが、どこかの鉱山の仕事を、若い父はしていたそうです。

 今回の洪水ですが、九州の被害は多大でした。年々歳歳、水の脅威が増し加わりそうで、先のことを考えてしまうと、悲観してしまいそうですが、この美しい列島が守られる様に願うばかりの七月の終わりです。
 
(最上川、大石田の花火大会です)

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音の風物誌

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 音には、嫌われるものと、好かれる音がありそうです。また、昔あった音が、今はなくなってしまっているものがあります。その逆もありそうです。テレビや電子機器のなかった子どもの頃には、自然の音や、それに近い音が聞こえてきて、人工的な音は滅多に聞くことがなかったのです。

 それに季節季節に、特有な音がありました。風鈴売りに呼び声風鈴のリンリンの音、金魚売りや納豆売りやしじみ売りの呼び声、豆腐屋のラッパ、火事の半鐘、消防自動車の鐘の音、小学校の小遣さんの打ち下ろす鐘などがあったでしょうか。

 春以来、隣家の “ スズメちゃん(聞き違いで「涼音」ちゃんでした)” の泣き声が、時々我が家に聞こえてきます。外で顔を合わす度に、『うるさくてもうしわけありません!』と、お父さんもお母さんも、それぞれが恐縮して詫びるのです。『こちらは4人を育てましたので、親の子守唄の様なものです!』と言いたいのですが、『元気そうでいいですね!』と応えると、安心しておいでです。

 その泣き声や、保育園の園庭に響く子どもの声が、〈騒音〉に聞こえる人が多くなっているのだそうです。電車の中でも飛行機の中でも、赤子連れの乗車搭乗反対を言い出す人まで出てきました。そんなこと泣き声を上げなかった人だけが言えますが、みんな泣いたではありませんか。それで今があるのを忘れないことです。

 そう言えば、いつか住んでいた家の一階の若い婦人が、天井板を、ホウキの柄で叩いて、『うるさい!』と言ってたことがありました。数年前、日本情緒を味わいたくて、暖簾と夏の風物誌の「風鈴」が欲しくなってしまいました。中国の街の家の軒下に、風鈴を見たことはなかったのです。去年、通販で買って、一夏楽しんだのですが、引越しの荷の中にしまったか、被災した家に置いてきてしまったか、どこかに行ってしまいました。
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 縄文の世には、すでに、「土鈴」があったそうで、「鳴子(なるこ)」と同じ様に、田圃や畑で、作物を荒らす鳥や動物よけのために使われていた様です。昔、よく見掛けた鳴子や「案山子(かかし)」を見なくなりました。農薬の散布で、必要なくなったのでしょうか。そうなると、ちょっと怖くなります。

 麦の穂を手で揉んで食べると、ガムの様になって、芋飴とか水飴とか茶飴、ぶっ切り飴もあったでしょうか。みんな幼い頃の食感で、懐かしく思い出されます。子育て中の今頃の季節、夏休みに入ると、週日の早朝に、4人の子を乗せたオンボロ車で、静岡県相良の海に出掛けました。暗くなって、海の家が閉まる頃まで粘って、引き返した日が、よくありました。一夏に、何度出かけたことでしょうか。

 山道で、車の空冷のゴム管が敗れてしまい、スカスカと音がしてしまい、貰い水を繰り返し、水を足し足しして、やっと修理工場を見付けて、修理してもらったこともありました。ハラハラした子ども時代を過ごしたせいか、4人の子たちは、何があっても、けっこう動じないで生きられている様です。二人っきりの今、賑やかで暑い夏が懐かしくなってしまいます。

(〈フリー素材〉の風鈴と乗っていたのに似た車です)

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夏はきぬ

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 昨晩も、湿度が高いので、エアコンの除湿機能にして就寝しました。夜半になって、それを止めて、窓を開けましたら、入ってくる風が冷たいのです。昨日のニュース( youtube )で、北京に雪が降ったと伝えていました。この異常な気候の中で、何年か前に書いたブログの原稿を、引っ張り出し、一部を転載しました。消えてしまった分です。

 「暑さ」を表現する言葉が、結構、多くあるようです。

「盛暑(せいしょ)」⇨真夏の暑い盛りのこと『盛夏の砌(みぎり)』と言います。
「大暑(たいしょ)」⇨『記録的な大暑でした!』と言い、「二十四節気」の第十二のことで「打ち水」が行われます。今年は今日、七月二十三日が「大暑」です。
「炎暑(えんしょ)」⇨真夏の甚だしい暑さのことです。
「激暑(げきしょ)」⇨「激烈」の激と同じで激烈な暑さのことです。
「劇暑(げきしょ)」⇨「劇薬」の劇と同じで酷い暑さのことです。
「甚暑(じんしょ)」⇨「甚(はなはだ)しい」暑さのことです。
「酷暑(こくしょ)」⇨「酷(ひど)い」暑さのことです。
「極暑(ごくしょ)」⇨「極(きわ)めて」暑いことです。
「厳暑(げんしょ)」⇨「厳(きび)しい」暑さのことです。
「残暑(ざんしょ)」⇨「大暑」を過ぎた頃をそう言います。
「猛暑(もうしょ)」⇨「猛烈」な暑さを言います。
「蒸暑(じょうしょ)」⇨蒸す様な暑さのことです。
「旱暑(かんしょ)」⇨「旱魃(かんばつ)」が起きるほどの日照り続きでとても暑いことです。
「溽暑(じょくしょ)」⇨蒸暑と同じ意味で蒸し暑さのことです。

 長く住んだ中国では、「暑い」と書いたり言ったりしません。「熱(热re)」という漢字を使って、「大热daire」とか、「很热henre」と言います。また「蒸し暑い」は、「闷热menre」と言うのを聞きます。蒸し風呂に入った様な、鉄板の上に乗った様な暑い日が続くことも、夏場にはありました。

 本来なら、今頃は、もう「夏休み」に入っているのですが、今年は学校の夏休みは短期間だそうです。中国語では、「暑假shujia」と言い、「休暇」の「暇」は、「にんべん」の付いた「假」を使ってます。

 さて上記の「暑」を使った言葉で、最も『暑い!』のは、どの言葉だと感じられますか。「あつ」と「なつ」が相互に関係し合って、この季節が「あつい」ので、「あつ」と言ったのが変化して、「なつ」になって、「夏」と書く様になったのだと聞いたことがあります。

 やはり、中国語の「闷热」が一番暑い様に感じてなりません。それにしても、今夏の暑さは、八月に入ってやってくるのでしょうか。父が、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と、書き残した言葉が、今年は実感できるのでしょうか。

 昨日、今夏初めて、セミの鳴き声を聞きました。駐車場の脇の木からの鳴き声でした。アブラゼミの『ミーン、ミンミン!』でしたが、何か鳴き声に力がなく聞こえたのは、気のせいでしょうか。かき氷が食べたくなる様な、元気な鳴き声を期待したものです。

(〈フリー素材〉のアブラゼミのイラストです)

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朝一輪二輪

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自然界は落胆しないのですね。どんなに雨続きでも、へこたれません。いつもと同じ朝を迎え、同じ鉢の枝に、美しい花を咲かせている朝顔とサルビアです。昨日は兄から取り寄せの白桃が、先週は義妹から贈られてきました。こんな雨でも、甘くて美味しかったのです。湿りがちの夏を、桃三昧を舌で楽しんでおります。

今、外で、ミンミンゼミの鳴く声がしました。今夏第一声です!

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Nein!

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 第二次大戦下、ドイツに、“ ボンヘッファー ” という学者がいました。両親は大学で教えていた教授で、恵まれた環境で、この人は育っています。ナチスが政権を握った後に、心で闘いつつ〈反ナチ運動〉に身を投じた人でした。ヘーゲルやマックスヴェーバーやバルトの影響を受けていたそうです。ほぼ私の父と同世代人になります。

 第一次世界大戦の戦争責任を負ったドイツは、ワイマール帝国が崩壊し、莫大な賠償金と領土の分割と言った、国家的な危機的状況にありました。しかも物価の高騰、失業などが社会問題となっていた時期だったのです。そんな状況下で、ドイツ国民の支持を得て、台頭したのが、ヒトラー率いる〈国家社会主義ドイツ労働党/いわゆる“ ナチス ” 〉でした。彼らが掲げたのは、〈反ユダヤ主義〉でした。

 人心収攬(しゅうらん)の術に長けたヒトラーは、巧みな話術で、危機回避のアピールをし続けて行きます。その結果、国を誤った道に導き、何と600万人ものユダヤ人の犠牲者を生んだのです。残念なことに、当時の日本は、日独伊の三国同盟に加盟してしまいました。

 そのナチスの反ユダヤ政策に、“ Nein(英語のNoです)!“ と言って立ち上がったのが、ボンヘッファーでした。私は、若い日に、本で読んで、39歳で、亡くなって逝ったこの人に、重大な課題を投げつけられたように感じたのです。自らの信仰、教えられてきた学びと、その国家的、世界的な暗闇の中で、〈ヒトラー暗殺計画〉に加担せざるを得なかった想いを、私は突きつけられて、迷ったのです。

 『汝殺すなかれ!』との教えと、彼が選び取らざるを得なかった〈殺人計画〉との大きく深い〈食い違い〉を、どう埋めていくかの課題でした。日本でも、『日本人たれ!』で〈天皇崇拝〉を強要され、造物主の在すことことの狭間で、懊悩した青年たちが大勢いたのを、私は、歴史学習を通して知ります。今もなお、絶対的な権力で、自由を奪い取っている国家があり、多くの若者が、それに、どう向き合うかの課題を突きつけられているのです。
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 結局、その暗殺計画が露見し、それに関わった人たちは逮捕されてしまいます。その中にボンヘッファーも、彼の義兄弟もいました。彼は、1945年4月9日、フロッセンビュルクの強制収容所で処刑されてしまいます。私の次男の今の年齢ででした。不条理が罷り通るこの世で、正義や真理や公平や愛は、どこにあるのでしょうか。そうでない忌まわしい現実に、どう向き合えばいいのでしょうか。

 彼の死の3週間後、ヒトラーは自殺して果てます。ボンヘッファーが殺人の実行者となって、『その汚名を負うことから免れるために、その刑死があったのだ!』と、若かった私は結論したのです。ドイツ人の堅実さや賢さを知っている私は、全国民が、ナチス支持に回ったという歴史の事実の中で、経済問題や就職問題の食べて生きる必要や民族の誇りなどに固執し過ぎれば、誤った道に人心は導かれてしまうのだと分かったのです。

 悶々と苦しむのは、いつの世も、どこの国でも、若者たちです。ベルリン大学で、弱冠25歳で講座を担当した折、その授業を、《祈り》をもって始めるほどで、聴講の学生たちを驚かせたボンヘッファーでした。その数年後に、ヒトラーが宰相の地位に着き、人道にもとる政策を行い、ドイツの最暗黒の時代が始まります。でも、この第三帝国は、25年で崩壊してしまいます。現代の世界中の若者が、正しく選択し、決定し、責任を負うことができますように。まだ歴史に学ぶ必要のある私であります。

(留学したかったハイデルベルク大学、一度食べたい本物のハンブルグステーキです)

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秋刀魚

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 子どもの頃、まだ戦争の余韻が残る時代だったのでしょうか、「人間の条件」とか「真空地帯」などの戦争映画がよく上映されていました。軍隊の理不尽さや隊内の不条理さや酷さや辛さを描いて、戦争批判をしていました。そんな中に、兵隊の一番低い位の「二等兵物語」のシリーズが上映されていたのです。その中で、主演の伴淳三郎が、「歌う二等兵」を歌っていました。

粋な上等兵は 思いもよらぬ
せめてつけたや 星二つ
雪の夜中に ふんどし一つで
鳥毛逆立て 捧げ銃(つつ)
ひどいなひどいや こいつはひどいや

「コラ、何をガタガタふるえちょるんだ、
アーン、貴様年は何んぼか」
「でありまし」
「馬鹿者ありましとは何んたる事か
標準語を使え年は何んぼか」
「ハッ三十一でありー
ハッハックション」

敵が落した 焼夷弾が裂けて
髭の隊長が 腰ぬかす
ありゃりゃこりゃりゃとよくよく見たら
何と隊長の 髭が無い
すごいねすごいや 焼夷弾はすごいぞ

「隊長殿、御立派な髭が燃えちまって見当りません」
「馬鹿者!髭など問題じゃないんだ
司令部の屋根っこさ燃えてんでないか 分んねえのか
早く消せ!」

月も出たのに 休めはまだか
若い班長が 恨めしや
どこで焼くのか さんまの匂い
風が吹くたび 鼻が鳴る
つらいなつらいや 二等兵はつらいなぁ

 夕闇の帳(とばり)が降りて、薄暮が過ぎて、月の明かりだけの運動場で、ボールを投げ合い、走らされたり、うさぎ跳びをしていました。勝たなけれならない強豪校の予選会前の練習でした。喉は乾くし、お腹は空くのですが、『休め!』や『終わり!」』の号令は下りません。

 運動場の外れに、教員住宅や市営団地があって、秋の夕べには、夕食の秋刀魚を焼く匂いと煙が、たなびいてくるのです。バンジュンが歌う、『・・・どこで焼くのか さんまの匂い 風が吹くたび 鼻が鳴る・・・』の歌詞が思い出されて、まさに、『・・・月も出たのに 休めはまだか・・・』でした。もう六十年も前のことが昨日の様です。

 その秋刀魚が今年は不漁、一尾五千円もする高値だと、ニュースが伝えます。近所中で、サンマを焼くような子ども時代は、夢であった様に感じる〈世知辛さ〉の今日この頃です。平和の時代の只中で、〈コロナ騒動〉やら隣国の騒動やらイナゴの異常発生で、世相は騒然、庶民の心は恐れと不安に揺れています。それでも《否定的に過ごすよりも、肯定的に捉えて生きる方が得策だ!》に、うなずいて生きることにします。

 インターハイや国体の予選に勝っても負けても、全ては思い出の中です。悔しさよりも、あの秋刀魚の匂いが恨めしいほど、空腹だった方が、強烈な思い出です。明日は秋刀魚でも焼こうかなの、日曜の食いしん坊の夕べです。

(〈フリー素材〉の七輪の炭の上の秋刀魚です)

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また咲いた!

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 『空に、こんなにたくさんの重たい雨があるんだろうか?』と思ってしまうほど、雨降りが続いています。雨がなくては日本の農業は成り立ちませんが、降り過ぎて、桃や葡萄の生産農家は、悲鳴を上げています。『出荷がおぼつかないんです!』と、笛吹市の友人が知らせて来ました。止み間に収穫された桃が、先週、家内の妹から送られて来ました。『日照が少なくて、糖度が足りないんです!』と言っています。でも、とても甘くて、美味しく戴きました。

 きっと今頃の時期の雨を歌ったのでしょう、作詞が北原白秋、作曲が弘田龍太郎の「雨」がありました。

1 雨がふります 雨がふる
  遊びに行きたし 傘はなし
  紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 
  緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
  いやでもお家で遊びましょう
  千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
  けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
  小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
  お人形寢かせど まだ止まぬ
  お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
  昼もふるふる 夜もふる
  雨がふります 雨がふる

 まさに、「・・・昼もふるふる 夜もふる」雨ですが、うんざりするのも感謝するのも同じですから、感謝することにしましょう。

 有名な「洪水物語」があります。40日、40夜、雨が降り続けたのです。方舟(はこぶね)に乗った8人の人を残して、全地は水で滅んだのです。アララト山の中腹に、方舟は漂着して、ノア夫妻と3人の息子夫妻が助かりました。すると「虹」が見えたのです。そして声がありました。

 『“それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。””わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。”』とです。

 この約束ゆえに、地球は洪水で、水没することはなさそうですが、中国大陸も日本も、この暴雨の中で、この約束を握って生きて行きたいものです。来週には、梅雨前線は、後退してくれそうです。燦燦と降り注ぐ真夏の陽を、一身に浴びたいものです!

そんな雨の中、” morning glory “ の朝顔が、また咲きました。

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何のその

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 週末の雨の早朝の朝顔です。肌寒いのに、《何のその》で咲いています。朝ごとに、ベランダに出て眺めると、生かされてある実感を味わえるのです。今季の朝顔の葉の勢いが弱いのですが、それでも強く咲き誇っています。好い週末をお過ごしください。

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