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今日は、「冬至」でした。そいえば、今日の日没は早かったでしょうか。「南瓜」を食べて、「柚子湯」につかった日々を思い起こしています。いよいよ「太陽の復活」、「夏至」まで、日一日と日が長くなっていきます。みなさまの健康を願っております。
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月: 2017年12月
怒り
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自分が欠点だらけでいけないのに、『どうも父の血を引いてしまったようで・・・』と言い訳していた時期がありました。自分が《短気》なのを、父親のせいにして、父親に恥をかかせてしまったていたのです。少なくとも、人は、l「成人映画」が観られる《18歳》になったら、「選挙権」のある《二十歳(はたち)》を過ぎたら、もうしっかり自分の責任で生きなければならないのです。
「日本アンガーマネジメント協会」という団体があるそうです。怒りやすく、激しやすい人に、<講習>を受けてもらって、その悪癖を矯正する講座を開いているのです。また、<企業研修>も行っているそうです。そして、この数年、この協会で、「アンガーマネジメント大賞2017」という賞を、アンケート調査で決めて、表彰しているそうです。この"アンガーマネジメント"とは、「怒りの感情と上手に付き合う(怒りの管理)」と訳されていて、1970年代に、アメリカで始まった働きです。
さて、2017年、「上手に怒りの感情をコントロール・対応したと思う有名人」は次の人たちです。
第1位 松山千春氏(歌手、俳優)
第2位 村田諒太氏(プロボクサー)
第3位 市川海老蔵氏(歌舞伎役者)
第4位 桐生祥秀氏(陸上選手)
第5位 バナナマン氏(お笑い芸人)
松山千春は、飛行機のトラブルで、離陸時間が遅れた時に、自分の持ち歌を、機長の許可を得て歌って、乗客のイライラの解消をしました。また、ボクサーの村田諒太は、勝ち試合を、審判の判定で負けを喫したのです。このことに、『第三者が判断すること。僕自身が勝敗について言うのは違う。』と冷静に受け止めていました。そのことが、半年後の再試合でと言いますが、""圧倒的勝利をして、タイトルを奪還したのです。怒りとの付き合い方が、抜群でした。
私の愛読書に、『怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。』とあります。いやー、すごい挑戦です。怒りを爆発させてしまったことが、若かりしころに、何度かある自分には、耳と心が痛いのです。家内が、『最近は、怒らなくなった様ね!』と言いますが、"怒りのマグマ"がくすぶっていそうで、まだまだ安心できません。もし怒り始めたら、"九九"をやるか、"食べた物"を順次思い出してみたら好いかも知れません。
でも、根本的には、"心根"を変えていかなければならないのでしょう。自分が怒られる対象なのに、怒られないで、赦されている事を思い出すのが好いのでしょう。そうしたら《心の勇士》になれるかも知れません。
(昨日食べたのがすき焼きでした)
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入院
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今年の二月に、栃木の友人の家にお邪魔していて、帰る前の晩、階段を降りてて踏み外して、転げ落ちて、したたか左の肩を床に打ち付けてしまいました。翌朝、その友人に成田までのリムジンバスの発着所に送ってもらい、中国の街に、痛いまま戻ったのです。でも日が経つに従って、肩の痛みが増していきました。それで、市内の病院で、"CT"を撮影してもらいましたが、骨折ではないとの事でした。
それでも痛みは増すばかりでした。それで肩の打撲について、ネットで検索していたら、「腱板断裂」かも知れないと思い、探し当てた札幌の病院に、メールで、症状を伝えたところ、主治医から、『"MRI"を撮って送ってください!』とのことでした。それで、その病院で撮影していただき、メールに添付して送信したのです。そのフィルムを見た医者は、『腱板断裂ですから、早めにどこかの整形外科で手術が必要です!』と返信があったのです。
それで、そこまで親切にしてくださったので、中国から見た日本の街は、どこの街も同じ位置でしたから、難なく、"ネット環境"で診断を下し、返信してくれた医者に診察と手術をお任せしようと決めたのです。それで、4月12日に、"北帰行(!?)"をし、北海道札幌に参りました。
ある新聞記事に、「北げる」という言葉が出ていました。五味康祐が、そういった表現をしたそうで、「逃げる」を、そう表記しているのです。『通常、人は南から北に逃げるのだ!』そうで、だから「北げる」で好いのだそうです。
「北」は、「敗北」の「北」。「北」という漢字のルーツ(字源)は、背を向けてはなれる、すなわち、負けて「逃げる」ということのようです。
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.後漢時代、紀元100年ころつくられた中国最古の体系的字書『説文解字(せつもんかいじ)』には、「乖(そむ)くなり。二人相背(あいそむ)くに从(したが)う」と書いてある。・・・じつはこれ、二人の人が背中を向け合って立っているところを描いた文字なのだ。背を向けて乖離(かいり)する(はなれる)——これは「逃げる」ということにほかならない。つまり「敗北」とは、(戦いに)敗れて逃げるということなのだ。(「不思議な漢字―意外と知らない日本語の謎(志田唯史・文春文庫+PLUS)」)
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「北」の漢字の成り立ち・由来
会意文字です。2人の人が背を向けて「そむく・にげる」を意味します。
また、人は明るい南面を好むが、そのとき背にする方角「きた」を意味する「北」という漢字が成り立ちました。(「漢字の成り立ち・由来辞典」より)
私は、決して、「北げる(逃げる)」ために札幌に行ったのではなく、そこは親切さにほだされ、その病院に入院して分かった事ですが、同じように「腱板断裂」で手術をしてもらった患者が、常時3、40名も入院していたので、執刀医で院長の医師の腕が優れており、看護もリハビリテーションも素晴らしかったからです。《中国から来た日本人の患者》である私に、病院規定の例外で、本院にい続けさせてくれて(本来なら分院に転院させられるのですが)、リハビリに専念させていただいたのです。
4月12日初診、14日手術、5月19日退院、<35日間>の入院生活を過ごしたのです。こちらに戻ってから、友人たちが探してくれた「市立医院」のリハビリテーション科でリハビリを受けました。今日、12月20日、術後8ヶ月が過ぎ、ほとんど支障なく左腕を使える様に快復しております。北国の秋を感じさせる8月には、《3ヶ月検診》に、家内を伴って、札幌、そして知人のいる函館に行って参りました。
入院中の病友が、どれほどいたでしょうか。「相憐れむ」病人同士、励まし合いながら、過ごした日々が懐かしく思い出されます。『ニセコに住んだらいい。親戚に土地を分けてもらうように言うから来てください!』と勧めてくれた方、カップラーメンの夜食を分けてくれた方、饅頭や北海道銘菓、手作りの菓子、飲み物を下さった方々、本を見せてくれた方、病室のトラブルを抱えて苦しんでいた方、手術をした後にリハビリのミスで出戻った方、"オホーツク文化"があった事を分かち合ってくれた方、みんなとよく話し合ったのです。そんな病友たちがいました。
毎朝、コーヒールームにいる私に『おはようございます!』と挨拶して北海道新聞、日経新聞を手渡してくださった警備員の方、『何でも言ってください!』、『男同志、体を洗いますので!』と言ってくれた男性看護師、美味しい処を教えてくれた看護師、育った家庭環境を話してくれた看護師、etcでした。
『北は<敗北>の北!』では、決してない事を知ったのです。今年、北海道フアンになり、北海道人が好きになりました。若かりし頃の"同級生+女友達"の出身地だったのも思い出させられたりでした。『伊達市は、住み良いですよ!』と移住の勧めをしてくれた病友もいました。ある方には、自分の人生の転機を話したりした事もありました。みなさんが無事に、新しい年を迎えられます様に願いつつ。
(今年"35日間"入院していた病室です)
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NO!
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「禁忌(きんき)」という言葉があります。"デジタル金字泉"によりますと、「[名](スル)1 忌(い)み嫌って、慣習的に禁止したり避けたりすること。また、そのもの。タブー。「禁忌を破る」2 人体に悪影響を及ぼす危険がある薬剤の配合や治療法を避けて行わないようにすること。」とあります。
私は若い時に、二つの「禁忌」を心の中で誓いました。自分を滅ぼしてしまうだろう事物に、『近づかない!』と決心したのです。一つは「博打(ばくち/賭け事)」、もう一つは「麻薬」でした。ずいぶん曖昧で、いい加減で、意思も強くない人間だったのに、この「二つの禁忌事項」は、今日まで守って来れたのです。そんな弱い自分なので、褒めてあげてもいい気分でいます。
トランプとか花札とか麻雀をしていた時に、のめり込んでしまいそうな自分に気づいたのです。上の兄が、家で、友人を招いて麻雀をしていたことがありました。一人足りなくて、中学生の私を誘ったので、雀卓を囲んでジャラジャラやり始めたのです。その音と感触がなんとも言えなく誘惑的で、ゲームの内容の複雑さと面白さに引き込まれる様でした。『深みにはまりそう!』、という危機感を、なぜか突然感じて以来、どんなに級友に誘われてもしませんでした。こんなに面白いゲームは他にないのが分かって、はまり込みそうだったからです。
「ヒロポン」の怖さを、父に聞いた時に、地獄か奈落の底に、"すーっ"と吸い込まれて、落ちていく様な気持ちを疑似体験したのです。その危機感と恐怖感が、思いの中に焼き付いて以来、決して、それを手にすることがありませんでした。怪しい飲み屋で飲んでいた時も、それに手を出すことは一度もありませんでした。誘惑の機会は幾度となくありましたが、父の言葉は、強烈に、私をその誘惑から守ってくれたのです。
父の言葉から、「事の善悪に基準」を心の中に刻んだ事は、無謀な男気のあるような生き方をしたかった自分には、驚くほどの抑止力、拒否能力を培ってくれたに違いありません。聖人君子の様に生きたわけではありません。人には言えない様な、赤面の恥ずかしい事だらけ、失敗だらけの青年期でした。人には見せない心の裏に、"闇"を抱えていたのです。肺炎で死に掛けて、"すーっ"と死に誘われる、あの子どもの時と同じ様な感覚、幻覚にいくどとなく襲われながら、地獄の淵を彷徨いながら、滅びないですんだ、明確な転機が私に訪れたのです。
『日本全国に、約《七十万人》の"ギャンブル依存症"で苦しんでいる人がいる!』との統計があります。一攫千金の夢に取り憑かれ、勝負に勝ったときの感覚は、麻薬に似た様な設けた時の高揚感に似てるのでしょうか。それに捕らえられてしまって、日常の生活もままならない人が、多くおいでです。税収入を見込んだ"公営ギャンブル"の「胴元」が、地方自治体の「市」だという事は、実に皮肉な事ではないでしょうか。手ずから働いて得た収入で、その範囲内で生きる事を教えられたのは感謝でした。
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昨日今日明日
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12月19日の私たちの住んでいる街の「日の出」は6時44分、「日の入」は17時16分です。いよいよ日中の時間が短くなってきて、その頂点が、「冬至」です。引っ越してきた家は、9階建ての2階、南側も9階建てですから、夏場に比べて、太陽が昼過ぎにやっと当たり始めると言った状況なのです。
今度の家には、エレベーターがあって便利になった分、冬場の今日日、もう少し太陽が恋しい気持ちが強いのは当然でしょうか。昨日の朝は、川辺を散歩して、行きつけのスーパーの一階のケンタッキー・フライドチキンで、ベーコンと卵とレタスのサンドイッチとコーヒーで朝食を摂りました。コーヒーが、インスタントではないので、格別に美味しいのです。
家内が、同じビルの二階にある美容室で、散髪している間、大通りの交差点にある事務所に行って、公共バスの家内用のカードに、入金してきました。日本では、今頃は、クリスマスと歳末商戦の真っ最中で、賑わっていることでしょう。今年の私たちの街は、例年になく、クリスマスの雰囲気がほとんどありません。来年の「春節」前にならないと、盛り上がりが見られないで、普段通りです。
夕方は、十一人で、お弁当の夕食を摂りながら過ごしました。"牛肉飯"を、とても美味ししくいただきました。実は、家内の友人だった方ですが、日系企業の社長さんの奥さんが、ご主人が、日本の本社勤務になって帰国される時に、"炬燵(こたつ)"を置いて行ってくださったので、先週末に"客厅ketin/客間"にセットしたのです。畳の上ではないのですが、"日本情緒"が一杯になりました。
実は、"電気餅つき機"も頂いたのです。来週は、もち米を買って、お餅をつこうかと思っています。そして、お雑煮にしてもらうつもりです。ただし、わが家では"小松菜"と"三ッ葉"と"鶏肉"仕立てなのですが、青菜は、こちらにはないのです。代わりになる青菜で作ってもらうことにしています。
そんな昨日今日、そして明日の暮らしぶりです。今日の天気予報は"晴れ"とのこと、久しぶりに山に行ってみたいのですが、まだ咳が残っていて、まだ決めかねています。昨日の兄と弟からのメールで、"兄弟会"を三人で持ったと知らせてくれました。3時間も上の兄の家で、楽しく交わりをしたそうです。同じ父と母の"子"として、励まし合えて、感謝なことです。
レーザー・ビーム
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小学生の時の「夢」を実現するために、一つのことに夢中になれたのは、素晴らしいことです。それが、あの"イチロー"の活躍で分かります。アメリカは、そんな「夢」を実現させてくれる社会だということになりそうです。移民国家だからでしょうか、ピューリタンの祝福を受け継ぐ地だからでしょうか。社会が、人種の枠を設けていないから、誰でもが、実力次第で、その「夢」を実現できるのです。
この人の人間性は知りませんが、ライトの守備位置で補給したボールを、ホームを守るキャチャーのミットに目がけて、一直線で投げる「送球術」は、ただ驚くだけでした。これを、"レーザー・ビーム"と言い、よく『タッチアウト!』を取っていました。
その様な、最高のプレーをするために、妥協することなく、自己管理をし続ける"イチロー"には、誰もが脱帽させられました。今日現在でも、何時呼ばれても、守備につけて、バッターボックスに立てて、塁を窺う盗塁するための準備を、来季に向けて備えてるのだそうです。江夏も稲尾も別所も、野村も川上も落合も、凄い選手だったのですが、自己抑制をし続ける"イチロー"には、驚かされてしまいます。
自分で、『五十まで現役を続ける!』と決断してるのですから、"大リーグ"のスター選手のままでなくて、"3A"でも好いので、燃え尽きるまで野球選手を続けて欲しいのです。獅子は、老いても獅子だからです。その機会を得られる様に、心から願うのです。私の子どもたちと同じ世代の"星"であり続けて欲しいのです。
年齢とともに、肉体は、衰え、気力も失せるのですが、グラウンドで倒れるまでバットを握り続け、グローブをはめ続け、スパイクを履き続けて欲しいのです。野球少年に、どれほどの夢を与えてきたことでしょう。きっと、"終活"を考えていることでしょう。プロ野球の世界への"貢献"はもう十分です。これからは、優秀な選手が、どう終わって行くかの様子を見たいのです。
トロントの野球場で、"イチロー"のプレイを見たのは、もう随分前のことでした。大活躍の真っ最中だったのです。きっとフアンがいて、選手が大成するのでしょうけど、孤高のプレーヤーの彼も、そうだったに違いありません。
(2013年に日本プロ野球で使用された統一球です)
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爷爷
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私の父は、「鉱山技師」として、満州、京城(現在の韓国のソウル)、山形などで働いてきていました。戦時下には、軍命で、「石英」を採掘する仕事を受けて、中部山岳の山奥にいました。爆撃機の防弾ガラスを作るための「軍需工場」の場長として勤務していたのです。
額に、日の丸を染め抜いた鉢巻きをした、工場従業員の記念の集合写真が残っていました。戦時色が強くなり、増産が急務だったからでしょう、その決起の気概を、軍部に報告するための写真だったのかも知れません。採掘した石英の原石を、採掘現場から「策動(ケーブルカー)」で、トラック輸送できるところまで運び、そこから国鉄の駅で貨車に積み込み、京浜のガラス工場に搬送していたのです。私は、父と一緒に、「山手線(東京都内環状線)」に乗っていた時に、その防弾ガラスを製造していた工場のあった辺りを、父が指し示してくれたのを覚えています。山奥と東京を、何度も往復して、30代の父は、軍命を全うしていたわけです。
こちらに参りましてすぐに、ある方の案内で、この街の古代からに歴史を、文字や図で刻んだ「石板」が、街の中心を流れる川岸に、2キロメートルほど掲示されてあるのを見させてもらいました。そこには、日本軍の爆撃機の空襲で、中心街が爆撃され、多くの犠牲者があったという記事があったのです。父の採掘した原石で作られた防弾ガラスが、その爆撃機の部品の一部だったわけです。
それを知って、今更ながらに驚いたのです。南京、上海、重慶などの爆撃は知っていましたが、自分が住み始めた街も、また日本軍の攻撃を受けていたわけです。「大東亜共栄圏」、「五族協和」を旗印にして始めた戦争が残したものは、実に大きかったわけです。
父は、その時期の「軍務ダイアリー」を残していました。1944年の物も、父の机の引き出しの中にあって、その「12月17日」の欄に、「午前4時45分誕生」と、右上がりの字で書き込まれてありました。父の筆跡です。そうです、今日は私の誕生日でした。
村長さんの奥さんが、産婆をしてくれて、受けとめてくれたそうです。寒い冬の山奥の旅館の別館に、日の出の2時間以上も前に起き出して、駆け付けてくれ、お湯を薪で沸かして、産湯(うぶゆ)をつかわせてくれたのです。その村長さんの家の玄関に、幼い私の写真が、いつまでも飾られていたそうです。源氏の落ち武者の末裔(まつえい)でしょうか、"藤原姓"でした。
今日、出先で、幼い子供をあやしていたら、その子のお母さんが、『爷爷(yeye/おじいちゃん)に你好(nihao)は!』と言っていました。あの可愛い赤子が、白髪で、シワのできた「爷爷」になってしまったわけです。でも、まだ元気で、すべきことがあって、生かされている自分を感じています。弟や子どもたちから、お祝いのメールがありました。嬉しかった!
仲由
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孔子の弟子に、「子路」という人がいました。《孔門十哲》の一人で、孔子が最も愛した弟子だったそうです。その出会いの様子が、次のように伝えられています。
『「汝(なんじ)何をか好む?」と孔子が聞く。
「我、長剣(ちょうけん)を好む。」と青年は昂然(こうぜん)として言い放つ。
孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、余りに稚気(ちき)満々たる誇負(こふ)を見たからである。血色のいい・眉(まゆ)の太い・眼のはっきりした・見るからに精悍(せいかん)そうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われた。(中島敦著「弟子」からの引用)』
この子路は、無頼で軽率さの見られる人だったのですが、ただ「率直」だったのが、孔子に愛された理由だったのです。直情的な性格でしたので、孔子の説く教えと、自分とのギャプの大きさに、弟子になったばかりの頃は苦しみながら、教えを受け入れていったと言われています。年齢差は、<九歳>だったそうです(私とアメリカ人の師と同じでした)が、「人間」として抜きん出ていた孔子に、子路は男惚れてしまうのです。実年齢さには、はるかに及ばない「人間の差」に、子路は圧倒されて、「師」のそばで死ぬまで過ごすことに徹したのです。
この子路について、中島敦の「弟子」に、次のような箇所があります。
『師の言に従って己(おのれ)を抑(おさ)え、とにもかくにも形に就こうとしたのは、親に対する態度においてだった。孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚(しんせき)中の評判である。褒(ほめ)られて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘(うそ)ばかりついているような気がして仕方が無いからである。我儘(わがまま)を云って親を手古摺(てこず)らせていた頃ころの方が、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽りに喜ばされている親達が少々情無くも思われる。こまかい心理分析家(ぶんせきか)ではないけれども、極めて正直な人間だったので、こんな事にも気が付くのである。ずっと後年になって、ある時突然親の老いたことに気が付き、己の幼かった頃の両親の元気な姿を思出したら、急に泪(なみだ)が出て来た。その時以来、子路の親孝行は無類(むるい)の献身的(けんしんてき)なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄(にわか)孝行はこんな工合ぐあいであった。』
この子路は、大変な親孝行だったそうです。百里も離れたところに住む叔母のところに行って、米をもらい、それを背負って家に持ち帰って、両親に食べさせたほどでした。それで中国の「二十四孝(ここには本名の"仲由"で出ています)」の一人に数えられている人です。
今日日、世界中で「老人問題」が注目されていて、ここ中国も同じです。こちらには、2億4000万人以上の老齢者がいて、「行方不明者」や「孤独死」や「虐待」の問題が多く、ニュースで取り上げられています。 私自身も老齢に達していますので、他人事ではありません。ある人が、「人は生きて来た様に、老いを迎え、死を迎えるのだ!』と言っていました。
百まで生きようと、私は公言し、決心しているのですが、ちょっと決心が揺らいでしまいそうです。でも 人の「齢(よわい)」を決めるのは、命の付与者のみですね。それなら、一日一日を、生かされている思いで、気張らずに、素直に生きていきたいものです。
(米を背負う「子路(仲由)」の像です)
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小さな朝顔
もうすぐ
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《新しい年への期待感》が、子どもの頃にありました。『来年こそは、ボク、がんばるぞ!』という気持ちを、心の中から湧き立たせていたのです。そう言った思いを、まだ持たせてくれた年齢と時代だったのかも知れません。晴れ着を買ってもらい、新しい履物、下駄だったでしょうか。正月の朝に、それを着たり履いたりして、カラコロと音を響かせながら外出したのです。
「お正月(東くめの作詞、滝廉太郎の作曲)」も、年の暮れになると、よく歌ったり、聞こえてきました。
もういくつねると お正月
お正月には 凧(たこ)あげて
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月
もういくつねると お正月
お正月には まりついて
おいばねついて 遊びましょう
はやく来い来い お正月
指折りをして見たり、暦を見たりして、消去法で残りの日を数えていました。「お年玉」をもらえるのも楽しみだったからでしょうね。母は出雲、父は横須賀の出身でしたが、親戚に行く様なことは、冠婚葬祭以外にはなかったので、「お年玉」は、父からもらう以外なかったのです。
暮れになると、母は、何時もに増して忙しくしていて、片付けや掃除、正月の準備に余念がありませんでした。それは、新しい年を迎える興奮が、家にも近隣にも、国中にあったのでしょうか。街中の店は、「お歳暮(おせいぼ)」や年末商品を、賑やかに売り出していました。家に「杵(きね)」が残っていましたから、記憶はないのですが幼い日には、家で「餅搗き(もち つき)」をしていたのでしょう。いつも米屋さんに、正月用の餅をお願いしていました。
その餅が届くと、切りやすい硬さになるまで待っていた父が、実に几帳面(きちょうめん)」な性格でしたから、竹の定規を当てて、実に正確に同じ形に切って、餅箱に揃えて入れていました。それを正月には、父が、一人一人に『いくつ喰う?』と聞いて、七輪の炭火の網に載せて焼いてくれるのです。
それを、何か調味になるものを加えたのでしょう("味の素"はまだなかったので)醤油味で、鶏肉と小松菜の具で、母が作った雑煮の鍋に入れて、しばらく煮て、椀(わん)にとってくれました。暮れに買い出しに行って、せっせと母が作り置きしていた「御節(おせち)」が供されていました。ごまめ、黒豆、きんとん、きんぴら、なます、昆布巻、蓮根、牛蒡(ごぼう)や蒟蒻(こんにゃく)や椎茸(しいたけ)や里芋の煮物などなどに、市販の伊達巻、紅白の蒲鉾、ハム、酢ダコなどが、三段や平の「重箱」や大皿に、きちんと入っていました。
若い頃にやめて酒を飲まなかった父が、正月だけ、「葡萄酒」を飲み、顔をほのかに赤くしていたのが印象的です。子どもにも、少し味あわせてくれたでしょうか。和やかな「団欒(だんらん)」が、拳骨親爺と優しいお袋の家庭にありました。この童謡のように、凧も上げたり、駒を回したり、カルタや福笑いといったゲームもしました。
姉や妹がいたら違っていたのでしょうけど、喧嘩に明け暮れた男兄弟四人でしたが、「良質の思い出」もありました。そんな家庭で育ったことを思い返して、感謝しています。家内が、『餅を搗こうかしら?』と言っています。「臼(うす)」はないのですが、駐在員の方が置いていってくれた「餅つき機」があるからです。小松菜は、「江戸風の雑煮」には欠かせないのですが、こちらにはないのです。もうすぐ、ですね。
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