爷爷

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私の父は、「鉱山技師」として、満州、京城(現在の韓国のソウル)、山形などで働いてきていました。戦時下には、軍命で、「石英」を採掘する仕事を受けて、中部山岳の山奥にいました。爆撃機の防弾ガラスを作るための「軍需工場」の場長として勤務していたのです。

額に、日の丸を染め抜いた鉢巻きをした、工場従業員の記念の集合写真が残っていました。戦時色が強くなり、増産が急務だったからでしょう、その決起の気概を、軍部に報告するための写真だったのかも知れません。採掘した石英の原石を、採掘現場から「策動(ケーブルカー)」で、トラック輸送できるところまで運び、そこから国鉄の駅で貨車に積み込み、京浜のガラス工場に搬送していたのです。私は、父と一緒に、「山手線(東京都内環状線)」に乗っていた時に、その防弾ガラスを製造していた工場のあった辺りを、父が指し示してくれたのを覚えています。山奥と東京を、何度も往復して、30代の父は、軍命を全うしていたわけです。

こちらに参りましてすぐに、ある方の案内で、この街の古代からに歴史を、文字や図で刻んだ「石板」が、街の中心を流れる川岸に、2キロメートルほど掲示されてあるのを見させてもらいました。そこには、日本軍の爆撃機の空襲で、中心街が爆撃され、多くの犠牲者があったという記事があったのです。父の採掘した原石で作られた防弾ガラスが、その爆撃機の部品の一部だったわけです。

それを知って、今更ながらに驚いたのです。南京、上海、重慶などの爆撃は知っていましたが、自分が住み始めた街も、また日本軍の攻撃を受けていたわけです。「大東亜共栄圏」、「五族協和」を旗印にして始めた戦争が残したものは、実に大きかったわけです。

父は、その時期の「軍務ダイアリー」を残していました。1944年の物も、父の机の引き出しの中にあって、その「12月17日」の欄に、「午前4時45分誕生」と、右上がりの字で書き込まれてありました。父の筆跡です。そうです、今日は私の誕生日でした。

村長さんの奥さんが、産婆をしてくれて、受けとめてくれたそうです。寒い冬の山奥の旅館の別館に、日の出の2時間以上も前に起き出して、駆け付けてくれ、お湯を薪で沸かして、産湯(うぶゆ)をつかわせてくれたのです。その村長さんの家の玄関に、幼い私の写真が、いつまでも飾られていたそうです。源氏の落ち武者の末裔(まつえい)でしょうか、"藤原姓"でした。

今日、出先で、幼い子供をあやしていたら、その子のお母さんが、『爷爷(yeye/おじいちゃん)に你好(nihao)は!』と言っていました。あの可愛い赤子が、白髪で、シワのできた「爷爷」になってしまったわけです。でも、まだ元気で、すべきことがあって、生かされている自分を感じています。弟や子どもたちから、お祝いのメールがありました。嬉しかった!

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